第55話

 茜は頭の中で、現実が乖離かいりしていくのを感じていた。毒、産卵、苗床、人食い……何もかもが悪い冗談としか思えない。だが熊川の告白はずっと抱き続けていた疑問の全てを解消していた。【訪問介護ひだまり】は、人間ではない者たちが経営する会社。転職サイトで見つけた仕事は、決して関わってはいけない世界への入口だった。


 全部忘れなさい……さよなら。熊川が最後に残した声が耳の奥で何度も再生される。神原の毒から逃れた彼女は、今までたった一人で、正気を保ちながら異常な介護を続けてきた。それはかつて同僚だった宮園妃倭子を見捨てられない一心からだろう。助ける方法があるかどうかは恐らく彼女自身も知らない。それでも、自分と一緒に逃げようとはせず、あの忌まわしき屋敷に残り続けることを選んだ。


 熊川がいなければ、自分はこのまま【ひだまり】の正社員になっていた。神原から毒を注入されて、思考力を失って会社の忠実な下僕となり、やがて身体機能まで失って産卵の苗床に変えられていただろう。今の妃倭子のように青緑色の冷たい肌になり、喉奥に挿し込まれたクスコ式膣内鏡から人肉を溶かしたスープを与えられて、黒い布袋を頭から被せられて……。その危機から救ってくれたのは、あの憎らしかった熊川だった。それにもかかわらず、自分は彼女を屋敷に残して立ち去ろうとしていた。


 そしてもう一人、屋敷に残してしまった者がいる。宮園広都。あの子はまだ、母親を助けてもらえると信じているのだろうか。いや、疑うはずがない。絶対に助けると手話で約束したのだから。


 その時、茜は思いがけない事実に気づいた。書庫にあったスケッチブックで見た広都の絵。そこには屋敷に来た三人の介護ヘルパーの下に悪魔のような女が描かれていた。目を見開き、大口を開けた形相ぎょうそうで、鉤爪かぎつめの付いた手で人形らしきものの首を掴んでいた。さらにその姿には大きな×印が何重にも付けられていた。


 茜はその絵の女を妃倭子だと思っていた。今の母親の様子からそのような姿を想起したのだと思い込んでいた。しかし違った。あれは妃倭子の姿を描いたのではなく、神原椿の本性を描いたものに違いない。妃倭子はあの悪魔ではなく、その手に捕らえられた人形のほうだった。


 さらにもう一つ、広都の行動から気づいたことがある。妃倭子の掛け布団の中に大量の羽虫を入れたことだ。黒く、大きく、腰部が極端にくびれた不気味な姿。図鑑によるとあれはジガバチという昆虫だった。


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●ジガバチ

体長:十九~二十三ミリ。分布:北海道~九州。活動:五月~九月。

寄生バチの仲間。毒針を刺して動けなくしたガの幼虫などを地中に掘った穴に入れて、その体の上に卵を産み付ける。ガの幼虫は死んでいないが毒で動けないので、卵からかえったジガバチの幼虫はそのままガの幼虫を食べて成長する。

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 広都は知っていたのだ。母親の身に何が起きているのか。そして、これから何が起きるのかを。【ひだまり】による説明できない妃倭子への介護と、理解できない神原たちの生態を、昆虫に置き換えて伝えようとしていた。それを自分は、母親への恋しさあまりの悪戯と勘違いしていた。


 ちらりと、視界の端で何かの光を感じる。素早くルームミラーを見ると、背後の闇から爛々らんらんと輝く二つの目が明滅していた。追いかけて来た。カーブの多い夜の山道を駆け下りるように、猛スピードで近づく車のヘッドライトが見えた。


 茜はアクセルを強く踏んで加速する。しかし速度の差は歴然だった。相手は明らかに走り慣れている。このままでは麓の町に着く前に追いつかれるか、その前に道を外れて森の木々か山の斜面に衝突するだろう。どう考えても逃げ切れる状況ではなかった。


 熊川はどうなったのだろう。自分を屋敷から逃がしたことは、明らかに会社の方針に逆らう行動に違いない。ならば彼女が毒から逃れていたことも神原たちに知られてしまったのではないだろうか。あいつらは裏切り者を絶対に許さない、と彼女自身が言っていた。捕まって毒を注入されるか、もしかすると、それだけでは済まないのかもしれない。


 広都はこれからどうなるのか。あの子は大人が思う以上に周囲の出来事を観察し、状況を把握している。もし神原たちがそれを知ったら、決して放ってはおかないだろう。それ以前に妃倭子が苗床としての役目を終えたなら、もはや屋敷に置いておく意味もなくなる。神原の産卵は妃倭子だけでなく、広都の危機にも繋がっている。そしてあの子には逃げる術もなかった。


【ママたすけて】


 ノートの切れ端に書かれた稚拙な六文字が目に浮かぶ。今、茜にはそれが、この世に生まれなかった我が子からのメッセージのように思えた。広都は決して我が子ではない。六歳児では生まれ変わりですらありえない。しかし我が子でなければどうだと言うのか。守りたくても守れなかった我が子を悔やみながら、母親を助けてほしいと願うあの子との約束を破って逃げるのか。


 茜はアクセルから足を離して惰性での走行に任せる。背後から迫り来る獣の両目は、すでにこの車のテールライトを捕らえているだろう。やがて充分に減速するとブレーキを踏みしめて、ハザートライトも点滅させる。車が完全に停止すると、ヘッドレストに頭をゆだねて目を閉じた。


 逃げるわけにはいかない。もう二度と、子供を見殺しにはしたくなかった。



三十九


 雲の切れ間から射し込んだ月明かりが夜空と森の境界線をぼんやりと照らしている。虫の声は途切れることなく、ざわざわと岸辺のような潮音ちょうおんを山間に響かせていた。


 屋敷から追いかけて来た車は茜の車へ近づくに従って、次第に速度を落としていく。夜の山道でふいに車を停めた茜を不審に思ったからだろう。茜は後続車がすぐ近くまで来たことを確認すると、エンジンを止めてリモコンキーをポケットにしまって車から降りる。そして出迎えるように自分の車の後ろに回った。


 四本足の代わりにタイヤを付けた白い猛獣が、吊り上がった目をぎらぎらと輝かせながら茜の前に停車する。眩しさに目を細めつつ車内を窺うと、高砂藤子が一人で運転して来たことが分かった。



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