第52話

 スタートボタンを押すとエンジンはわずかにき込んでから始動して、室内に重低音を響かせた。当然、外ではさらにけたたましいエンジン音が周囲の空気を震わせて、屋敷の中にまで届いていることだろう。自動車の運転は久しぶりだが免許は持っている。慎重に、しかし、ためらうことなくアクセルを踏んで発進させた。


 多分、もうすぐ、何かが起きる。きっと想像しているよりも早く、迷っているうちに間に合わなくなる。茜はそんな予感に強くき立てられて、誰にも知らせることなく屋敷から脱出した。私室のドアの鍵を開けて、自動車のリモコンキーと、【逃げろ】のメモを残したのが誰なのか、何を意図しているのかは分からない。しかし宮園妃倭子の社員証を目にした今、ここに留まっているのは危険だと直感的に判断した。


 道は大きく蛇行して、車は横転しそうなほど左右に揺れ動く。ただし分かれ道や脇道もなかったと記憶しているので気をつけていれば道に迷うことはなさそうだ。勝手に屋敷を抜け出して、車に乗って行ったと知れば追って来るだろうか。麓の町まで辿り着ければ、車を捨てて逃げおおせるかもしれなかった。


 ハンドルを握る手に力が入る。神原椿と高砂藤子、あの母娘には何か秘密がある。宮園妃倭子は依頼を受けた要介護者ではなく、自分たちの会社の社員だった。そして二人は難病を患った妃倭子を山奥の屋敷に隠して、他の社員たちに介護をさせていた。なぜ? 経営者として、いや、人としてまともな判断とは思えなかった。


 恐らく、あの二人は妃倭子の難病にも関係している。町の病院や介護施設に入れられない理由もそこにあるはずだ。引田と熊川はこの真実を知っているのか? 自分より長く勤務している彼女たちが知らなかったとは思えない。だから引田は質問をはぐらかし、熊川は露骨に追い出そうとしてきたのか。そう考えると全て辻褄つじつまが合う気がした。


 暗闇の中、ヘッドライトの光だけを頼りに危うげな道を下り続ける。途中で三台の対向車とすれ違った。いずれも白のワゴン車で同じようなフォルムをしていたと思う。この道は屋敷にしか続いていないから、対向車に乗っていたのは他の社員たちだろう。神原か高砂に呼び出されたのか? 何のために? 引き留められるかと恐れたが、いずれもそのまま通り過ぎて行った。


 警察へ行かなければいけない。あの屋敷で行われていることを訴えて、【ひだまり】の不正を白日の下に晒さなければならない。正義感ではない。自分の身を守るためにはそうするしかなかった。それが妃倭子と広都の母子を救うことにもなると思った。


 ポケットの中から甲高いチャイムが鳴り響いた。


 茜はわずかに肩を震わせる。聞こえてきたのはスマートフォンの電子音だった。無関係なメールか、意味のないお知らせメッセージでも受信したのか。ともかく山を下って電波の届くエリアに入ったということだ。麓の町はまだ遠いが、孤独で不可解な屋敷を離れて文明社会に帰還できたような気がする。ひとまずほっと胸を撫で下ろした。


 ハンドルから強張った片手を離して、ポケットからスマートフォンを取り出す。運転中の使用は厳禁だが、今はそうも言ってはいられなかった。最寄りの交番か警察署を調べてこのまま向かうか、先に通報して状況を伝えて対応を任せておきたい。はやる気持ちで液晶画面をタップした。


 屋敷の電話番号から、留守番電話が三件届いていた。


 茜は走行する正面の道と手元の端末との間で何度も視線を行き来させる。今までスマートフォンの電波が届かなかったので、その間の着信は留守番電話として基地局に留められていたのだろう。電話番号はアドレス帳に登録されていなかったが、屋敷のエントランスにあった固定電話の番号だと気づいた。電話機の背後の壁面に貼られていた連絡先の一覧表にあった【お屋敷TEL(この電話)】の番号と一致していた。


 電話を掛けてきたのは高砂か、神原か。無断で屋敷を出て行った理由を問いただし、戻ってくるよう連絡してきたのか。聞き入れるつもりはないが、相手の出方は知っておきたい。新たな事実も分かるかもしれない。そう思って留守番電話を再生してスマートフォンを耳に押し当てた。厳しく叱られるか、やんわりとたしなめられるか、いずれの言葉でも投げかけられる覚悟していた。


『もしもし……熊川です』


「熊川さん?」


 茜は思いがけない相手に驚き留守番電話に返答してしまう。彼女はこちらの電話番号まですでに調べ上げていたようだ。


『この電話が聞けているということは、栗谷さんは無事に屋敷から逃げ出せたってことだと思う。そのつもりで話すからよく聞きなさい』


 熊川はぼそぼそと、辺りをはばかるような声で話を始める。私室のドアの鍵開けて、この車のリモコンキーと【逃げろ】のメモを残したのは彼女だった。


『まず、そのまま車に乗って麓まで辿り着いたら、駅で車を捨てて電車に乗って、どこか遠くへ行きなさい。自宅へ帰ってはいけない。警察へも行ってはいけない。とにかく痕跡を消して、居場所を知られないようにしなさい』


「警察へも行ってはいけない……?」


『そのスマートフォンも解約しなさい。発信電波で位置が分かるという話を聞いたことがあるから。できれば名前も変えて、姿も、整形したほうがいいかもしれない。栗谷さんはなるだけ早く、完全に別の人になって、どこかに身を隠しなさい』


 熊川は早口で話し続ける。嘘とは思えない。何か、とてつもない告白が始まっている。茜は運転に注意しながら耳に届く彼女の声にも集中した。


『あの二人は、必ず栗谷さんを捜して捕まえに来る。今度捕まれば、あなたはもう二度とこの屋敷から出られない。だから逃げて。絶対に見つからないように』


「あの二人……」


『栗谷さん、今の話と、これから話すことは、全て真実。私は今まで、随分とあなたに酷いことをしてきた。言わなかったことも、嘘を吐いていたこともある。だから、信じてもらえないかもしれない。あるいは、とても信じられない話に思えるかもしれない。でも、全て本当のこと。あなたは、この屋敷に来てはいけなかった』


 そして熊川は、一呼吸置いてから発言した。


『神原椿と、高砂藤子は、人間ではない』



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