第51話

 果たして素人が泥棒のようにドアの鍵を開けることなどできるのだろうか。鍵穴に挿し込む針金のような物を探したが、あいにくそんなものは持っていない。ヘアピンなら何本かあったが、先端が丸くなっていて鍵穴には全く入らなかった。


 以前テレビで外側から内側のサムターンを回す空き巣のテクニックが紹介されていたのを観たが、あれも特別な工具がなければできないはずだ。部屋には備え付けのベッドと小型のチェストと書き物机があるだけで、持参したトランクにも適当な道具は何一つ見つからなかった。


 窓に填まった面格子のほうも確認したが、やはり外す方法は思いつかない。チェストの抽斗ひきだしを開けてもすでに片付けたので中身は空になっていた。


 その時、一番下の抽斗の奥に、何か物が挟まっているのを見つけた。


 床に手を突いて抽斗の中を覗くと、下板との隙間に何かカードのような物が挟まっている。そんな物を入れた覚えはないので、恐らく前に誰かがこのチェストを使っていて、気づかないうちに挟まれてしまったのだろう。


 茜は無理な体勢で腕を伸ばしてそれを摘まんで引っ張る。鍵開けに役立つ物とは思えないが、見つけたからには確認したい。端を掴んで二、三回振ると隙間から抜き出すことができた。カードのような物体は、見覚えのあるパスケースだった。


 【訪問介護ひだまり 介護ヘルパー 宮園妃倭子】


「え?」


 茜は思わず声を上げて目を丸くさせる。見つけたのは自分も所持している【ひだまり】のパスケース。初日の最初だけ首から提げていた、写真付きの社員証だった。


「妃倭子さん? え……」


 社員証は宮園妃倭子の物だった。写真には彫りが深くて鼻の高い、澄まし顔の妃倭子が映っている。それはあの黒袋を取った妃倭子の容貌ようぼうと同じ、白濁した目に大口を開けて髪を振り乱していた姿とは異なるが、骨格や各パーツは瓜二つだった。


「妃倭子さんが……【ひだまり】の社員?」


 茜はベッドに放置していた自分の社員証と見比べたが、やはり同じ物だった。何より妃倭子が健康的で若々しい肌を持ち、きっちりと焦点の定まった瞳をこちらに向けているのが信じられなかった。本当はこんなに素敵な顔をしていたのか。茜は驚きと感動に胸を奮わせたが、瞬時に湧き起こった恐怖に手が震えた。


 これは一体、どういうこと?


 頭の中で、これまでの常識が音を立てて崩れ出す。何か根底から勘違いしていたことを、この薄いパスケースがはっきりと示していた。


 介護していたはずの妃倭子が、実は同じ介護ヘルパーだった。神原と高砂がこの事実を知らないはずがない。引田と熊川も知っていたのか? まさか広都も? 全身が総毛立ち、足下の床がたわんだように揺れ動く。何もかもが間違えていた。この屋敷と、この介護には、想像以上にとてつもない現実が隠されていた。


 ドアをノックする音が部屋に鳴り響く。


 茜は思わず社員証を持つ手で口を塞いで体を固めた。


 物音を立てずに目線だけを音のほうに向ける。ドアの向こうに誰かがいる。神原か、高砂か、熊川か、広都か、全く分からない。じっと留まっていると、さらに二回ノックの音が聞こえた。返事ができない。黙っているほうが不自然に思えたが、声がどうしても喉から出て来なかった。


 やがて、コトンと、ドアの下で金属音が聞こえた。


 何の音だ? 何をしている? 茜はそれでも動くことができず、ただ全身が耳になったように廊下の物音に集中していた。まさか鍵を開けた? ドアを開けて入ってくるつもり? 誰が? 震える歯を噛み締めて腹筋に力が入る。右腕に食らいついてきた妃倭子の姿が頭を過ぎった。彼女は本当に原因不明の難病だったの? もしそうでないとすれば、彼女の身に何が起きたの? 【ひだまり】の者たちが人知れず介護を続ける理由って……。


 やがて、ぼそっぼそっと絨毯に物を落とすような音が遠ざかっていく。それはドアの前にいた人物が去って行く足音のように聞こえた。その後はもう何の音も聞こえない。茜はじっと身構えていたが、ドアが開く様子もなかった。


 ようやく静かに息をつくと、それでも音を立てないように慎重な足取りでドアに近づいていく。ノックに応じなかったから眠っているとでも思われた? 会えばどうなっていた? もはや何も分からず、誰も信用できない。ドアノブにそっと触れて、ゆっくりと手首を捻ると、半回転してドアが開いた。やはり今の人物が鍵を開けたらしい。慎重に、針が通るくらいの隙間から廊下の様子を窺いながら、ゆっくりとドアを開けていく。やがて頭が通るくらいまで開放すると、恐る恐る首を伸ばして左右を確認した。誰の姿もそこにはなかった。


 その代わりに、足下には黒くて小さな部品のような物と白い紙が置かれていた。拾い上げてよく見ると、板状の部品には錠前のマークで施錠と解錠を表した二つのボタンがあり、裏側には自動車メーカーのエンブレムが刻印されている。それで庭に駐車している車のリモコンキーだと分かった。


 もう一つの白い紙は葉書よりも小さなメモ用紙で、乱雑に扱われたように皺だらけになっている。手に取ったほうの面には何も書かれていなかった。


 裏返して見ると、小さな字で【逃げろ】とだけ記されていた。



三十六


 茜はこっそりと私室を出ると、足音を殺して廊下を抜ける。そしてエントランスに誰もいないことを充分に確認すると、玄関のドアを開けて屋敷の外へと脱出した。手には拾ったばかりのリモコンキーとメモだけを握り締めている。片付け終わった私物のトランクは二つとも置き去りにしていった。


 すでに雨は上がっていたが、空は変わらず厚い雲に覆われている。スマートフォンで確認した時刻もいつの間にか六時を過ぎて、闇は次第に深くなりつつあった。あれだけ騒がしかったセミの声も途絶えて、森は不気味に静まり返っている。木々の隙間から見えない獣に狙われているかのような気配を感じていた。


 庭の駐車スペースには全く同じ型の自動車が二台停まっている。どちらも白のワゴン車で、側面には【訪問介護ひだまり】という会社名とハートをモチーフとしたロゴマークが青緑色で書かれていた。景色に紛れるように屋敷の壁沿いに歩き、腰を屈めて周囲を窺いながら、リモコンキーの解錠ボタンを押下おうかする。ズンッと片方の自動車から鍵の開く音が聞こえてハザードランプが点滅した。すぐさま小走りで近づいて運転席に乗り込み、内側から鍵を掛ける。車内にはバニラのような甘い香りが漂っていた。



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