第50話

「いいんです。これは私のわがままですから。神原さんや【ひだまり】をどうこう言うつもりはありません」


「ありがとう……だけど、駄目なんだね」


「本当にすいません」


 茜はきっぱりと断る。神原の溜息が聞こえた。


「分かった……だけど、栗谷さん。ひとつだけ、約束してほしいことがあるんだけど……」


「妃倭子さんやお屋敷のことなら、誰にも話しません」


「本当に?」


「絶対、口にしませんし、どこにも訴えません。皆さんにご迷惑をお掛けするつもりはありません。ほんの数日でもお世話になりましたから」


「良かった……お願い、絶対に守ってね」


「ですから、神原さん。どうか妃倭子さんと広都君を大事にしてください。辞める癖に勝手なことを言いますが、私は二人が、できれば安心して過ごしていただきたいと思っています」


「……大丈夫、私がしっかり気をつけて面倒を見るから。二人が平和で幸せに過ごせるようにするよ」


「神原さんもお体を大切になさってください」


「……ねぇ、栗谷さん」


「はい?」


「ドアは開けてくれないんだね」


「……すいません。今は、誰にも会いたくありません」


 茜はドアに向かって謝罪する。同じ歳の社長と社員。本当なら直接手を取って励まし合いたいところだが、やはり妊婦に合わせる顔はなく、まだ平静を保てるかどうかも不安だった。


「いいよ、栗谷さん。帰りの車を用意するから……ちょっと遅くなるかも知れないけどゆっくり待っていて」


「ありがとうございます。よろしくお願いします」


 やがてドアの向こうで足音が遠ざかっていく。茜はドアから離れると、そのままベッドの上に倒れ込んだ。


 終わった。これで全て終わった。結局、自分には関係のないことだ。これ以上、心身をすり減らしてまで付き合う仕事ではない。ただ妃倭子の力になれなかったのは残念で、広都との約束を果たせなかったのが心苦しかった。


 だが、もう何も考えたくない。やれるだけのことはやったつもりだ。あとは神原と高砂がうまく取り計らってくれることを願うしかない。真田駒子を回復させた実績が本当なら、きっとこのまま続けていくのが正解なのだろう。あの介護を……いや、それももう関係ない。明日からは全てを忘れて……。


 ……ほんのわずかな時間のあと、茜は物音に反応して目を覚ました。眠るつもりはなく、数分か十分程度の、まるで気絶したかのような仮眠だった。何か音が聞こえたような気がしたが、辺りを見回しても変化はない。部屋の外からは何の音も聞こえてこなかった。


 再び沈みこむような眠気を振り払って、茜はベッドから起き上がる。行動しなければならない。屋敷を出ると決めたのだから、荷物をまとめて帰る準備をしなければいけない。三日前に広げたばかりの荷物は片付けるのも苦労はなかった。


 少し眠ったお陰か、茜の普段の冷静さを取り戻していた。麓まで帰るには自動車で送り届けてもらわなければならない。神原からはしばらく待つように言われたが、具体的にはいつ出発になるのだろうか。先ほどはあまりに辛くてドア越しに会話をしてしまったが、やはり神原と高砂と、熊川にも挨拶をして別れるべきだ。妃倭子には会わせてもらえないかもしれないが、それは仕方がない。しかし広都にはきちんと顔を合わせて感謝を伝えたい。まずはそこから済ませておくべきだと思い、私室のドアへ向かった。


 しかし、ドアは鍵が掛かって開かなくなっていた。


三十五


 何かの勘違いかと思って、茜は何度か金色のドアノブを回す。しかし右に捻っても左に捻ってもすぐに詰まってドアも引けなくなっていた。いつの間にか、鍵が掛かっている。よく見るとドアノブの下に小さな鍵穴が付いていた。


 腰を屈めてよく見ると、鍵穴はこちらから鍵を差し込むようにできている。そうなると廊下側はツマミを回して施錠するサムターンが付いていたのだろう。茜は鍵を受け取っておらず、このドアに鍵など付いていないものと思い込んでいた。不自然な位置にあるところを見ても後付けされたものに違いなかった。


 何かの拍子で自然と施錠されてしまったか。何度かドアとドアノブをガタガタと動かしてみたが鍵が開く様子はない。やむを得ず拳でドアを叩いて外に向かって呼びかけた。


「すいません。近くに誰かおられませんか? 急にドアが開かなくなったんですが。すいませーん……」


 やや強めに叩きながら声を上げるが、廊下からは何の音も聞こえてこない。さらに大声を出そうと思ったが、その直前でふと体が止まった。


 もしかして、閉じ込められたの?


 ドアノブから手を離して、音を立てないように後ずさりする。そもそもこの鍵の場合、普通は廊下側に鍵穴があるはずだ。部屋側からいくら鍵を掛けても、廊下側からツマミを回して開けられるなら意味がない。しかし、意味があるとすれば、部屋に人を入れて鍵を掛ければ閉じ込めることができる。今の状況がまさにそれだった。


 四方の壁が迫り来るように感じて、茜は息苦しさを覚える。これまで安全地帯と思っていた私室が、出られないと分かっただけで急に身の危険を抱くようになっていた。背後には窓があるが金属の面格子が填まっているので抜け出すことはできない。実際に見たことはないが、これでは刑務所の独居房と同じだと思った。


 しかし、もし閉じ込められたとしたら、一体誰の仕業だろうか。今、屋敷内にいる人物は限られている。神原椿とはもう話が付いている。高砂藤子が古風な罰を与えるために鍵を掛けた可能性もあるが、それも仕事を辞めると知ればもはや無意味なことと分かるだろう。広都が屋敷にいて欲しくて閉じ込めようとしたのかもしれないが、あの子供が現時点で事情の全てを理解しているとも思いにくかった。


 そう考えると、やはり熊川光江が一番怪しい。理由は判然としないが、彼女から異常に嫌われているのは自覚している。言動にも理解できないところが多く、嫌がらせで鍵を掛けて恐怖を与えようとしても不思議とは思えなかった。


 茜はドアの前で逡巡しゅんじゅんする。このまま誰かが気づくまでドアを叩いて叫び続けるか、それとも麓へ行く車の用意ができて神原が呼びに来るのを待つべきか。いや、声を上げるのも待つのも相手の罠に思える。何かこちらから開ける術はないか。そう考えて、辺りを見回して解錠の道具を探すことにした。

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