第49話

「わ、私は……」


 茜は過呼吸のようにあえぎながら首を振る。そんなわけがないと言い返したいが、根拠を示す方法が分からない。それ以前に、これ以上は話を続けたくなかった。しかし熊川はこちらを一瞥いちべつもせずに神原に向かって訴えた。


「お腹の赤ちゃんを殺すような人に、他人の介護なんてできません」


 神原は目を伏せると自分の腹に両手を置く。その瞬間、茜はテーブルに手を突いて立ち上がった。我慢の限界だった。


「……あ、あの、ちょっと気持ち悪くなってきたので、部屋で休んできます」


「待って、栗谷さん。いいのよ」


 高砂が引き留めるが、茜は手で口を覆って首を振る。胃がつかえて中身が逆流する感覚を覚えた。


「すいません。本当にすいません」


 そして中腰のまま小走りでダイニングを出ると、トイレに入って嘔吐した。胃がズキズキと痛み、体がガタガタと震えて、涙と鼻水が溢れ出した。ああ、ああ、と濁ったうめき声を漏らして、さらに嘔吐を繰り返した。


 病院の匂い、患者の顔、手術室の無影灯むえいとう、花瓶に入ったユリの花、血の匂い、分娩台ぶんべんだいの背もたれの感触、エコー写真に映る我が子、あの男の顔、看護師長の目付き、汚物の匂い、看護師たちの話し声、膨らんでいく腹、電話の着信音、見知らぬ母子、あの男の土下座、下から見上げる点滴、産婦人科医の慰めるような微笑み、マタニティマークのキーホルダー……


 スマホに録り溜めた写真や動画をスワイプするように、かつての光景が次々と頭を過ぎる。茜は両手で腹を押さえて歯を食い縛って耐え続けた。忘れろ、何もかも終わったことだ。過去に引きずられるな。眉間に皺が寄るほど強く目を閉じて、ただ頭の中が空っぽになることだけに集中した。


 溢れ出した記憶はやがて白く霧散むさんし、それに伴って感情の波も穏やかにいでいく。恐怖が遠ざかり、嘔吐感も体の震えも収まると、トイレの水が渦を巻いて流れていく様を見つめながら深く溜息をついた。


 もう大丈夫、何とか帰って来られたと思った。


 しかし、もうここにはいられないと悟った。


三十四


 茜はトイレを出ると私室に戻って床に腰を下ろす。ダイニングに戻ろうとしたがどうしても足が向かず、膝を立てて三角座りになって顔を伏せるともう立ち上がる気力もなくなった。体がしぼむほど息を吐き、そのまましばらく深呼吸を繰り返して気分が落ち着くのを待ち続ける。一年前も仕事から帰るとよくこうやって夜を過ごしていた。


 しばらくそのままでいると、ドアがノックする音が聞こえた。顔を上げて古い木のドアをじっと見つめていると、さらに二回、控えめに叩く音が繰り返された。


「栗谷さん……大丈夫? 神原です」


 ドア越しにささやくような声が聞こえる。茜は少しためらったが、返事をして腰を上げた。


「気分はどう? もう落ち着いた?」


「はい……平気です」


 茜はドアの前に立ってノブに触れるが、そのまま力が抜けたように手を下ろした。


「すいません、神原さん。ご心配をおかけしました」


「ううん、こっちこそごめんなさい。あんなことになっちゃって」


 神原はわざとらしく明るい声を上げる。


「熊川さんには二度とそんな話をしないように言っておいたよ。本当に、酷い人だと思う」


「……いえ、熊川さんは悪くありません。本当のことですから」


 茜はドアに額を押し付けて話す。熊川に対して恨みはない。怒る理由もない。事実を隠して、あの子をいなかったように見せかけていたのは自分だ。ショックを受けたのは、そんな自分が許せなかったからだった。


「私のほうこそ、社長や高砂さんにお話ししていなくて、申し訳ございません」


「いいんだよ、そんなこと話さなくて。うちのお仕事とは関係ないんだから」


「でも、私が看護師を辞めたのも、心と体を崩してしまったのも、それが大きな理由になっていました。面接の際にきちん説明しておくべきでした」


「そうだったんだね……でも今はもう元気になったんでしょ?」


「そのつもりでしたが……」


「元気だよ。ちっとも体調が悪いようには見えない。私なんかよりよっぽど活動的だよ。だから……」


「神原さん」


 茜は神原の話を打ち切るように声を上げる。


「……勝手を言って申し訳ございません。仕事を、辞めさせてください」


 萎えた拳を握り、喉から絞り出すように声を出す。ドアの向こうでも細いうめき声が聞こえた。


「栗谷さん……駄目なの?」


「すいません。ちょっともう……私には無理です」


「熊川さんかあなたか、どちらかを別の仕事に回しても良いんだよ?」


「そんなご迷惑は掛けられません。先ほどもそんな融通の利く状況じゃないって」


「そうだけど……でも、あなたに辞められるよりは良いよ。ママが何て言うか知らないけど、私は栗谷さんに続けてほしいって思っている。同じ歳だし、いい人だと思っているから、本当だよ」


「熊川さんだけが理由ではありませんから」


 茜は乾いた声で伝える。すでに感情は出し切って枯れ果てていた。


「妃倭子さんと、引田さんをあんな目にわせたのは、私の責任です」


「そんなこと思わないで。あれは会社の責任、だから社長の私のミスだよ」


「やめてください。神原さんこそ、そんな風に考えないでください。お体にさわります」


 熊川から流産の話を聞いた時、神原はそっと自分の腹に両手を置いたのを茜は見ていた。恐らく無意識のことと思うが、彼女も我が子が心配になったのだろう。妊婦の心境はそこまでナイーブなものだ。茜がドアを開けるのをためらった理由もそこにあった。神原の顔を見たくないのではなく、彼女に自分の姿を見せたくなかった。


「……それに、会社の方針にもやっぱり私は従えません。これ以上、妃倭子さんにあんな介護をしたくないんです」


「栗谷さん……」


 ゴンッと、何かがドアに当たる音が聞こえた。神原が手を突いたのか、額を押し付けたのか。しばらく沈黙が続いたあと、神原の声が聞こえた。


「……分かってほしいとは言えないけど、うちにも色々と事情があるの。栗谷さんに言えないことも、隠していることだってある。でもそれはあなたを信用していないとか、新人さんだから下に見ているとか、そういうことじゃないんだよ」


「それくらいのことは、私も分かっています」


「うちがもっと大きくて、力があれば、もっとうまくできるかもしれない。でも、今の私たちにはこれが精一杯なの。栗谷さんの気持ちも分かるけど……ごめんね」

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