第48話

「栗谷さん」


 その時、これまで静かにしていた神原が顔を上げる。


「……チョコレート、半分食べる?」


「え? いえ……」


「やめなさい、椿」


 高砂はいつか聞いた口調で娘をたしなめる。神原は少し笑みを浮かべてチョコレートを割っていた。


「だって、私だけ食べているのも変じゃない」


「だったら食べなきゃいいでしょ」


「仕方ないじゃない。止められないんだから。ねぇママ、これってどういうこと?」


「知らないわよ。食い意地が張っているんでしょ」


「違うよ。お腹の赤ちゃんが求めているんだよ」


「あ、あの……」


 茜は脱線しそうになる話を戻そうと声を上げる。


「……チョコレート、半分いただけますか?」


「もちろん、どうぞ」


 神原は嬉しそうに茜へ差し出す。高砂は呆れ顔で頬杖を突いていた。


「それで栗谷さん……それって、広都君から頼まれたの?」


「え?」


 茜はチョコレートを受け取りつつ、神原の顔を見返した。


「栗谷さんは広都君から言われたんじゃないの? ママの顔が見たいとか、ママに会いたいとか」


「……いえ、そんなことはありません」


「椿、あの子は耳が聞こえなくて話すこともできないのよ」


 高砂が横目を向けて指摘すると神原はうーんと唸って苦笑した。


「でも一緒に住んでいるんだから、コミュニケーションは取れているでしょ? 来たばかりの新人の栗谷さんがこんなことをしたのは理由があるんじゃないかって」


「妃倭子さんの黒袋を取ったのは、私の独断です。広都君とお話しすることはありますが、あの子から妃倭子さんの話は聞いたことがありません」


 茜は明確に否定する。なぜか、広都から助けを求められたことは伝えないほうがいいような気がした。それに広都から頼まれて妃倭子の黒袋を取ったわけではないのも事実だった。


「そう……だったらもう、良いんじゃない?」


 神原は腹を撫でながらのんびりと話す。


「栗谷さんも大変なことになったのは分かっているみたいだし、これ以上責任を追及しても仕方ないでしょ。次は気をつけてくれたらそれで良いよ」


「次ってあなた……栗谷さんにまだここで働いてもらうつもりなの?」


 高砂が厳しい目を娘に向ける。


「今回はたまたま運良く私たちが来たから収められたのよ。今度またこんなことが起きたらどうするの?」


「だから、気をつけてくれたらって言ったじゃない。引田さんもしばらくは復帰できないだろうし、ここは栗谷さんと熊川さんに頑張ってもらうしかないよ」


「他の社員と交代する方法もあるわよ」


「そんな融通ゆうずうく状況じゃないでしょ。大丈夫よ、私も残るから」


「椿も? だってあなたは……」


「ママの言いたいことは分かるよ。でも私の体は私が一番よく知っているから。ママは他にも仕事があるでしょ。心配しないで、私だってうまくやってみせるわ」


 神原は母親に向かってにっこりと微笑む。高砂は複雑な表情を浮かべていた。自分の娘で社長とはいえ、妊婦をこんな屋敷に置いておく訳にはいかない。しかし茜を放っておくわけにもいかない。そんな心境が窺えた。


「私は反対です」


 すると熊川が強い口調で声を上げた。


「栗谷さんはこのお屋敷にいるべきではありません。会社を辞めさせるか、別の仕事場へ異動させるべきです」


「熊川さんまでそんなこと言うの?」


「私は社長より栗谷さんのことをよく見て来ました。この人は私や引田さんの言うことを聞かずに、勝手な行動ばかり取っています。会社が決めた方針にも従わず、ずっとおかしな疑いを持っています。はっきり言って【ひだまり】には不適切で不必要な人間です」


「でも仕方ないでしょ。今は……」


「仕方がなくても、これ以上栗谷さんに妃倭子さんのお世話をさせるわけにはいきません」


「ああ、熊川さんは妃倭子さんと仲良しだったもんねぇ」


 神原が理解したようにうなずく。仲良しとはどういう意味だろう。ずっと以前、妃倭子の病状がまだ緩やかだったころから介護に勤めていたのか。ということは、これまで彼女に敵視されてきたのは嫉妬しっとに近い感情があったからだろうか。夜に様子を見に行くことを叱り、広都と親しくなることにも反対したのはそういう理由だったのか。


「私のことではありません。栗谷さんがふさわしくないということです」


 熊川は熱心に主張するが、神原は首を振って拒否を示した。


「だから私も残るって言ってるんだよ」


「社長の負担になります。今の社長は一番大切な時です。無理をしないでください」


「ありがとう。でも熊川さん、これは私が決めたことだよ」


「社長」


「私の言うことが聞けない?」


 神原はふいに強い口調で制する。熊川はわずかにためらったが、それでも意を決したように発言した。


「……でも、栗谷さんは、流産しているんですよ」


 すっと、茜は息をむ。熊川の言葉に全員の表情が固まった。


 今、何て言った? 頭の中が空っぽになり、何を言われたのか全く理解できなかった。


「栗谷茜さんは、去年に流産で子供を亡くしています。一昨日おととい、前に働いていた病院に問い合わせて確認しました」


 熊川は一言一言、はっきりと伝える。茜は一気に押し寄せてきた感情の波に体が震えた。なぜ知っている? 誰が話した? いや、今その話に何の意味がある? 突然のことで何も反応できない。神原と高砂は明らかに目を大きくさせて驚いていた。


「それは本当なの? 栗谷さん」


 高砂が神妙な面持ちで尋ねる。我に返った茜は唇を強く噛んで静かにうなずいた。否定はできない。死亡届もなく、父親もいない我が子だったが、確かに存在していたのだから。自分だけは絶対にいつわれない。高砂は短く数回うなずいたあと、慌てたように首を振った。


「いいえ。別にそれをどうと言う気はないのよ。ただ聞いていなかったからびっくりしちゃっただけ。本当にそれだけよ」


「そんな重要なことを隠している人は信用できません。動けない妃倭子さんや、子供の広都君に何をするか分かったものじゃないですから」


 熊川の言葉が容赦なく茜の胸に突き刺さる。心音が早まり、呼吸が乱れる。忘れていた絶望に内臓を引きずり出されて下腹部に痛みが走った。


「現に、栗谷さんは妃倭子さんの黒袋を剥ぎ取って私たちの仕事を無茶苦茶にしました。環境を改善したいとか言っていたけど、それと妃倭子さんの顔を晒すこととは何の関係もありません。今は反省していても、また突発的に変なことをやり出すかもしれません。そんな人なら、いないほうがましです」

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