第47話

「栗谷さん、怪我はない?」


 さらに後ろから別の女が茜の肩に手を回してきた。フードの下に富士額ふじびたいを隠した、平安貴族のような丸顔の女。重そうな体を左右に揺らして、ふぅと温かな息をついた。


「社長……」


「大変だったね。でももう大丈夫。うちのママに任せておけば心配いらないよ」


 同じ歳の社長、神原椿はそう微笑むと、安心させるようにぽんぽんと肩を叩いた。


三十三


 屋敷に戻った茜は風呂に入って汗と泥を洗い流して冷えた体を温めた。現状が把握しきれないまま、神原からそうするように指示されて素直に従った。着替えを済ませて右腕の包帯を巻き直してからダイニングへ行くと、席に着いた神原と高砂と熊川が一斉にこちらに顔を向ける。三人の前には紅茶の入ったカップと菓子が置かれていた。


「栗谷さん。気分はどう? もう落ち着いた?」


 高砂が微笑んで声を掛ける。茜は黙ってうなずいた。


「じゃあそこに座って。ああ、無理しないで体を崩してね。熊川さん、栗谷さんにもお茶を」


 熊川はテーブル上のポットから紅茶をカップに注ぎ無言で差し出す。不機嫌そうな仏頂面ぶっちょうづらはこちらに目を合わせることもなかった。


「高砂さん……妃倭子さんは?」


「今は寝室でお休みよ。静かに眠っておられるわ」


「引田さんは……」


 続けて尋ねると、高砂は少し表情を曇らせた。


「……怪我をしていたから麓の病院へ運ばせたわ。ここではどうすることもできないから」


「大丈夫でしょうか……」


「もちろん。元気になったらまたお屋敷に戻ってもらうわよ」


 高砂は声を弾ませて答えるが、茜は暗い表情は変わらない。嘘だ。遠くから見ていただけだが、引田の怪我はそんなに浅くはなかった。恐らく命にかかわるほどの重傷だったはずだ。だがそれを説明しても落ち込ませるだけなので気を遣われたのだろう。


「何はともあれ、間に合って良かったわ。昨日、お屋敷に不審者が出たと聞いたから、念のために社長とスタッフの何人かを連れてこちらへ向かっているところだったの。その途中で今日も熊川さんから連絡があって慌てて駆けつけたのよ」


 それで高砂たちが早くにやってきた理由が分かった。昨日の一件も放ったらかしではなかったらしい。前もって聞いていなかったので熊川も知らなかったのだろう。


 今の熊川は、普段通りの熊川だった。市松人形のような澄まし顔と小山のような体型もそのままで、痩せたような様子も全く見られなかった。不思議だ。あの時、やけに細く見えたのはやはり錯覚だったのか。まさか夏の最中に服を着込んで厚着になる理由もないだろう。


「さて、栗谷さん。何があったのか話してもらってもいい?」


 高砂がカップに一口付けてから穏やかな口調で尋ねる。隣の神原は椅子の背もたれに体を預けて、大きくなった腹の上で板状のチョコレートを割って食べていた。


「熊川さんの話だと、栗谷さんが妃倭子さんの頭の袋を外してしまったから、妃倭子さんが驚いてお屋敷から逃げ出したらしいけど、それは本当?」


「本当です……」


「あの袋を取ってはいけないことは聞いていたでしょ?」


「聞いていました。素手で触ってはいけないことも、光を浴びせてはいけないことも」


「そうね。それなのに、どうして約束を守ってくれなかったのかしら。妃倭子さんがどんなお顔をされているか見たくなったの?」


「違います。好奇心じゃありません。妃倭子さんを助けたかったからです」


「助けたかった?」


「高砂さん。この状況は明らかに異常です。こんな山奥の屋敷に閉じ込めて、頭に袋を被せて介護するなんて普通ではありません。たとえお身内の方からそう依頼されたとしても、これは虐待と判断されても仕方ない環境だと思います。だから……」


何様なにさまのつもり?」


 熊川がとげを刺すようにぼそっとつぶやく。高砂がちらりと目を向けるとふてぶてしい顔付きで口をつぐんだ。


「栗谷さんはそう思ったのね」


「……誰でもそう思います。広都君も、こんなところで育てるのは不適切です。私たちは介護ヘルパーであって保育士ではありません。未就学児を他人が片手間で世話をするのは間違っています」


「妃倭子さんの袋を取ったら、その問題が解決すると思ったの?」


「妃倭子さんと、広都君の……環境を改善するきっかけになると考えました」


 茜は口籠もりつつ答える。実際に袋を取った理由は衝動的なものだった。何を話しても一向に無反応だった妃倭子に苛立ったと言っても良いだろう。しかしそれを高砂に説明するのは難しかった。


「高砂さん、妃倭子さんにはせめて麓の病院で適切な治療を受けてもらうことはできませんか? 広都君にもちゃんとした養育環境が必要です。色々と事情があるのかもしませんが、私たちの介護が必要かどうかはそのあとに決めてもらえば良いのではないでしょうか?」


「栗谷さんの言うことも一理あるかも知れないわねぇ」


 高砂は眉を寄せて同情するような微笑みをたたえていた。


「だけど、どうしてそれを前もって私に話してくれなかったのかしら? 何かあれば会社に知らせてほしいと伝えていたのに。どうして一人であんなことをしちゃったのかしら?」


「すいません……」


「先輩の引田さんや熊川さんには相談しなかったの?」


「……お二人には、理解していただけませんでした」


「いいえ。私はちゃんと注意しました」


 熊川が即座に口を挟む。


「私たちの仕事は会社の方針に従って妃倭子さんを介護することです。それ以外のことには関わるべきではないと伝えました。栗谷さんは嘘を吐いています。私はちゃんと否定しました」


「熊川さんは、こんな介護が正しいと思っているんですか?」


「引田さんに大怪我を負わせたのは誰? 妃倭子さんに襲わせたのは誰?」


 熊川は吐き捨てるように言い放つ。


「そう。それが一番問題なのよねぇ……」


 高砂が考え込むように口元で手を合わせる。


「……栗谷さんにそのつもりはなかっただろうけど、結果的には最悪の事態になってしまったのね」


 茜には反論する言葉が見つからない。こんなことになっては高砂から理解を得られるはもずなく、妃倭子の環境改善を彼女の身内に提案できるはずもない。屋敷の扉はさらに固く閉ざされ、黒袋はもう二度と外されなくなるだろう。言い訳はできない。全て自分の行動が招いたことだった。

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