第46話

 その時、頭に浮かんだ熊川の姿に、なぜか違和感を覚えた。


 ざわざわと森の木々が風に震える。何だろう。先ほどまでは気が動転して気づかなかったが、今あらためて振り返ると熊川はどこか様子がおかしかった。素顔の妃倭子がルールを破った自分に襲いかかっているのだから、彼女も冷静でいられるはずがない。いつになく機敏な動作で寝室を往復して、呆然とする自分の頬を叩いた。しかしそんなことではない。確か初日の深夜に彼女と出会った時にも同じような感覚を抱いた。おかしいのは言動だけではない。


 熊川の体が、別人のように痩せて細く見えたのだ。


 泥濘ぬかるみに足を取られて茜は地面に手を突く、右腕の傷が再びずきりと強く痛んだ。熊川が痩せていた。気のせい? いや、二度も同じように感じたのだから間違いない。別人だった? いや、顔は全く同じだった。つまり丸い顔や細い目はそのままだが、体型全体が一回りほど細く小さくなったように思えた。


 すすけたような黒い視界の遠くに、白い何かが動いた。


「妃倭子さん!」


 大声を上げると相手も気づいて立ち止まる。茜は一歩一歩、足下を確認しながら歩を進めた。とても走れるような地面ではない。相手のほうも逃げることなく、危なげな足取りでこちらに近づいてくる。その様子を見て、相手が妃倭子ではないと気づいた。


「茜ちゃん……」


 そこにいたのは引田のほうだった。傘もレインコートも懐中電灯も持っておらず、髪も体も雨に濡れている。雨か汗か涙かは分からないが顔もずぶ濡れだった。


「引田さん、大丈夫ですか?」


「茜ちゃん、妃倭子さんはどこ? 見つけたの?」


「み、見つかっていません。姿を見たので声を掛けてみたら引田さんでした」


「そう……」


 引田はそう言うと興味をなくしたように茜から離れる。


「待ってください、引田さん。この状況で探すのは無茶です」


 茜は彼女の手を取って留めた。


「一旦お屋敷に戻って対策を考えましょう」


「駄目だよ、茜ちゃん。妃倭子さんが出て行ったんだから、早く探し出してお屋敷に帰ってもらわないと」


「私もそう思っています。でもこの暗がりでは近くにいても見つけられません。今、熊川さんが会社に連絡していますから、指示を待ちましょう」


「でも妃倭子さんはお屋敷から出ちゃいけないんだよ。もうすぐお風呂の時間だから、寝室でお休みになっていないといけないの。私のお仕事は、妃倭子さんを清潔にして、寝室で穏やかに過ごせるお手伝いをすること。だから外へ出た妃倭子さんを連れ戻すのも私のお仕事なんだよ」


「いや、でも引田さん……」


「妃倭子さんはお屋敷の外に出ちゃいけない。誰にも見られちゃいけない。それが私のお仕事。私は妃倭子さんのために誠心誠意、介護をする。分かるよね、茜ちゃん? いつも笑顔で、朗らかに……」


 引田はやんわりと茜の手を解くと、ふらつくような足取りで歩き始める。彼女はどうしてしまったのだろう。いつもどこかずれたような感覚を持っていたが、今はそれがさらに顕著けんちょになって錯乱しているとさえ思えた。


 彼女は茜の話を無視して背を向ける。足下を見れば土に黒く汚れた靴下のままだった。信じられない。妃倭子だけでなく、引田まで靴を履いていない。どれだけ慌てていたとしても外へ出るのに靴を履き忘れることなど有り得るだろうか。見間違えたのかと思って懐中電灯の光をさらに下に向ける。


 引田の左足の太腿が血に染まっていた。


「引田さん、何ですか、それ……」


 茜は震える声で尋ねる。ベージュ色のズボンの裏側が大量の血で濡れている。そういえば、昨日、あの包丁男に襲われた際に左足を少し傷めたと話していた。しかしそこまでの大怪我を負った様子ではなかった。それでは今、この森の中で岩にぶつけたり、木の枝が刺さったりしたのか? なぜ平然として痛がる素振りすら見せないのか? 引田はどうなってしまったのか。


「ひ、引田さん。待って……」


「妃倭子さん、どこにおられますかぁ。お屋敷にいないと駄目ですよぉ……」


 引田は振り返ることなく森の闇に紛れていく。危険だ。彼女は自分を見失っている。熊川が危惧きぐしていたのはこのことだろうか。妃倭子よりも先に彼女を無理矢理にでも屋敷に連れ戻さなければならない。茜は泥が跳ねるのも構わず早足になる。まだすぐにでも追いつける距離だった。


 ばきばきばきと、轟音を立てて何かが引田を上から押し潰した。


「引田さん!」


 茜の足がぴたりと止まった。何だ? 太い木の枝が落ちてきたのか? いや引田の上に岩のような大きな塊があり激しく動いている。サルか? 人の背丈ほどもある大きな山猿が襲いかかってきたのか? 茜は腕だけを伸ばして懐中電灯の光を向けた。

 長い髪と赤いローブが炎のように揺らいでいた。


「妃倭子さん?」


 声が雨音に掻き消される。落ちてきたのは妃倭子だった。木に登り、枝にぶら下がって、引田の真上から覆い被さってきた。妃倭子は腕を振り上げて引田の背に拳を打ち付けて、乱暴に掻きむしっている。そして伏せるように顔を伏せると、髪を振り乱して頭を振り回していた。


 がしゅ、くちゃ、ぐちゃ、がしゅ。


「や、やめて……」


 妃倭子は何をしている? 引田はなぜ動かない? 目の前で起きていることが理解できなかった。まるで野生動物が獲物を狩るように、妃倭子が引田を食べている。身動き一つしなかった要介護者が、懸命に世話をしていた介護ヘルパーの肉を引きちぎっている。鮮血が乱暴に飛び散っていた。


 茜は止めることもできなければ、逃げることもできない。まるで妃倭子の難病が感染したかのように、恐怖に縛られて指先一つ動かすことができなかった。


「捕まえなさい!」


 背後から鋭い声が聞こえて、茜の脇を数人の女が通り過ぎる。灰色のレインコートをまとった三人の女たちが、長い棒の先が二股に分かれた刺股さすまたを使って遠巻きに妃倭子を突いて地面に転がした。ギャアアアと濁った叫び声が森に響く。遅れてもう一人の女が近づいていった。


「妃倭子さんに袋を被せて。噛みつかれないように気をつけて!」


「あ、高砂さん……」


 指示を出しているのは高砂藤子だ。大作りな白髪頭とチェーン付きの眼鏡に見覚えがあった。他の女たちは知らないが、振る舞いを見る限り同じ【ひだまり】の社員だろうか。いずれも選りすぐったように体格が良かった。

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