第45話

 ギャアアーと耳をつんざくような音が聞こえた。妃倭子が叫んだ。それは夜に聞こえたあの夜鳴き鳥の声と全く同じだった。茜の右腕から包帯をちぎって顔を離して、両目を押さえて絨毯に転がる。茜は両腕を掻いて彼女から離れた。


「妃倭子さん!」


 妃倭子はなおも激しい叫び声を上げ、髪を振り乱してもがく。妃倭子に光を当ててはいけない。今、三つ目のルールが破られたことに気づいた。


「く、熊川さん。照明を消して!」


「火!」


 熊川は返事の代わりに茜のほうを指差す。目を向けると床に落ちた燭台の火が絨毯を焦がして煙を上げている。慌てて手で払い、足をばたつかせて火種を踏み潰した。


 立ち上がった妃倭子がその横を走り抜けた。


「妃倭子さん、駄目です!」


 茜は叫ぶが妃倭子の耳には届かない。そのまま壁面のカーテンに追突すると激しい物音とともに窓ガラスを突き破って屋敷の外へと飛び出して行った。茜は慌てて立ち上がってあとを追いカーテンを開ける。雨の降りしきる空の下、裸足のままで真っ暗な森へと走り去っていく妃倭子の背中が見えた。


「そんな、妃倭子さん……」


「お前!」


 熊川が呆然とする茜を振り向かせて胸ぐらを掴む。


「ふ、袋を取ったのか! 顔を晒したのか!」


「わ、私は……」


 茜は熊川の剣幕に押されて声が出ない。彼女は眉を寄せて歯を剥き出しにして、今にも泣き出しそうな表情を見せていた。


「何、どうしたの……?」


 リビングのほうから恐る恐る引田が顔を見せる。騒ぎに気づいてやって来たのだろう。


「あ、駄目。電気を点けちゃ駄目だよ!」


 そして一瞬の後に寝室は再び闇に没した。


「……引田さん」


 熊川はドアを閉めようとする引田の下へ足早に近づく。


「光江ちゃん? 一体何をしているの? 妃倭子さんに光を当てちゃ駄目だよ。ルールを忘れたの?」


「その妃倭子さんが、外へ出て行きました」


「え? ええー……」


「栗谷さんが頭の袋を外したのでお目覚めになったようです。私が急いで照明を点けましたが、今日は外のほうが暗かったせいで窓を割って飛び出して行きました」


「そんな、大変。すぐに戻ってもらわないと……」


 引田は慌てて寝室から出ようとするが、熊川がその手を掴んで制した。


「待ってください。今から探すのは無理です。会社に……」


「離して!」


 引田が声を上げて熊川の手を振り解く。


「妃倭子さんは外に出ちゃ駄目。このお屋敷の中で過ごさなきゃいけない。そのお世話をするのが私の役目なんだよ。そうでしょ、光江ちゃん」


「そ、そうですが……」


「誰かに見つかったら大変なことになっちゃう。せっかくここまで来たのに。早く連れ戻さないと、私が妃倭子さんを……」


「引田さん……」


 引田はそう言って背を向けると小走りで引き返していく。熊川はなおを呼びかけていたがもうあとは追わなかった。


 熊川はしばらくその場に留まっていたが、やがて振り返ってこちらへやって来る。あまりに予想外の出来事が立て続けに起きたせいで、茜は何もできずに立ち尽くしていた。妃倭子が外へ出て、引田がそのあとを追って、熊川が目の前に立っている。みんな人が違ってしまったかのように様子がおかしい。何が起きた? 自分は何をしてしまった? あの黒袋にはどんな意味が……


 いきなり、熊川から頬を叩かれた。


 目の前に火花が散り、衝撃で顔が右を向く。混乱が鋭い音とともに耳から零れ落ちて頭が真っ白になった。顔を戻すと熊川が歯を食い縛って睨み付けている。そして、はぁっと勢いよく溜息をつくと普段の冷たい無表情に戻った。


「栗谷さん、引田さんを連れ戻してきて、早く」


「ひ、引田さんを? 妃倭子さんでは……」


「あなたに妃倭子さんは捕まえられない。それより一人で出て行った引田さんが危ない」


「どういうことですか? まさか妃倭子さんが引田さんにまで襲いかかってくるんですか? それであの黒袋を被らされていたんですか? あれは妃倭子さんが噛みつき癖を起こさないように……」


「さっさと行けよ! そんな話、今は関係ないだろ!」


「は、はい」


「……妃倭子さんを見つけても絶対に近づかないで。私は会社に電話で連絡して対応を決めてもらうから」


 熊川は苛立たしげに足を踏み鳴らしてエントランスへ向かう。理解しきれない状況だが、今は彼女の言う通りにするしかない。茜は黙ってあとに続いた。


三十二


 屋敷の外は時刻の感覚がなくなるほど薄暗く、庭の先に広がる森は夜のように真っ暗だった。茜は熊川からレインコートと長靴と懐中電灯を借りると、あちこちに水溜まりができた荒れ地を通り抜けて、妃倭子が姿を消した木立こだちの隙間へ足を踏み入れた。引田がどこへ向かったのかは分からなかったが、妃倭子のあとを追えばいずれ二人とも遭遇できると判断した。まずは引田を見つけて、それから一緒に妃倭子を連れ戻したかった。


「引田さん! どこにおられますか! 引田さん!」


 闇の中で声を張り上げて確認する。幸いにも生い茂る木々の葉がある程度の雨露をしのいでくれていた。引田は雨具も持たずに出て行った気がする。妃倭子に至っては薄手のローブの上に素足だ。真夏とはいえそれでは体を冷やして風邪をひいてしまうかもしれない。大人しく木の下でしゃがんで待ってくれていればいいが、それも期待できそうにはなかった。


 耳を澄ますと、ギャアギャアという脅すような声が聞こえてくる。顔を上げて懐中電灯を回しても姿はなく、それが妃倭子の絶叫か、単なる鳥かサルの鳴き声かは分からなかった。土の地面は起伏し、太い木の根や大きな石が障害物となり、おまけに雨にぬかるんで滑りやすい。とてもまともに歩けたものではないが、それだけに二人も遠くまでは行くのは無理だと思った。


「引田さん! どこですか! 妃倭子さんは一緒に探しましょう! 引田さん!」


 声を止めると右腕の傷がズキズキと痛む。妃倭子に噛みつかれたのは、昨日あの裸の不審者に包丁で切られた箇所だった。包帯を巻いていたお陰で直接ではなかったが、塞がりかけていた傷が少し開いてしまったらしい。噛みちぎられて残った白布の残骸に薄く血が滲んでいた。


 傷が痛むたびに、妃倭子の形相ぎょうそうが目の奥でちらつく。あの黒袋を剥ぎ取って初めて直視した彼女の顔は、衝撃的ではあったが予想していたほどではなかった。しかし今まで一切反応を見せなかった彼女が、目を動かして、噛みついて、叫び声を上げて逃亡することまでは全く想像できていなかった。脳の意識レベルが低下した状態から急に覚醒して、感情がコントロールできなくなって反射的に噛みついてきたのか。そして熊川が点けた照明の光に驚いて、屋敷の外へ逃げ出してしまったのか。

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