第44話

「妃倭子さん、教えてください。あなたと、このお屋敷には、一体何が起きているんですか? 私、ここへ来てから分からないことばかりです。妃倭子さんのお体は普通ではありません。私は元・看護師だから分かります。すぐにでも入院して治療にあたるべき状態なんです。

 それなのに、こんな山奥に隠されるように収容されて、あの、よく分からない生肉のスープばかりを食べさせられて。食べさせているのは私たちです。でも私たちは会社の指示で行っています。でも、それでいいんでしょうか? お身内のかたは何も仰らないんでしょうか? それとも、もうあなたは見捨てられているのですか?」


 黒袋の顔に向かって、せきを切ったように話し続ける。


「真田駒子さんはご存知ですか? 妃倭子さんと同じ病気に罹って、このお屋敷で介護を受けておられました。でもそのかたはもう回復されて、お子さんも生まれているそうです。いいえ、私は話を聞いただけです。でも、どういうことですか? そんなことが有り得るんですか? 妃倭子さんもいつか元気になれるんですか? このまま続けて……私にはとても信じられません」


 茜は左手を伸ばして妃倭子の青緑色の右手を掴む。冷たく乾いた鶏肉のような感触がした。病院で何度も触れたことのある、死体の手。親指の腹で手首の内側に触れても脈拍は感じられなかった


「誰も、そのことには触れません。妃倭子さんの病気も、お屋敷のことも、私には何も教えてもらえません。引田さんは全然気にしていないし、熊川さんからは余計なことをするなと言われて嫌われています。会社の高砂さんからもそんな説明はありませんでした。みんなから、私には関係のないことだから、黙って仕事をしろと言われているみたいです。全てを知っているのはあなただけです。妃倭子さん、教えてください。何が隠されてるんですか? 誰が嘘をいているんですか?」


 茜は自分が発した言葉にはっと驚く。なぜ、誰が嘘を吐いているのかと聞いたのか? 嘘を吐いて誤魔化している人物など熊川しかいないはずなのに。それとも無意識の内に、そうではないと気づき始めていたのか。真相を知っているのは熊川だけではないのか。


「……妃倭子さん、広都君のこと、心配じゃないんですか?」


 左手を離すと、妃倭子の右手は再びだらりと落ちる。茜はいつの間にか彼女の見えない顔をにらみ付けていた。


「広都君はママのことが心配で堪らないみたいです。私は、広都君からママを助けてほしいと言われました。ここへ来てまだ三日しか経っていないのに。だから私はあなたを助けたいんです。そうでなければこんなお仕事すぐに辞めて屋敷から出て行きます。でも、もう放っておけないんです」


 燭台を持ったまま両腕を伸ばして、妃倭子の顔を覆う黒い袋に触れる。決して顔を見てはいけない。しかし顔が隠れたままでは、すぐ側にいる我が子を見ることもできない。そんな病気など存在しない。そんな治療など許されるはずがなかった。


「私はもう一度、妃倭子さんと広都君を会わせたいんです。こんな汚い袋なんて外して、ちゃんと広都君を見てあげてほしいんです」


 首元のリボンを外すと袋の口部が広がる。そのまま両端を持って引き上げると、食事介助の際に見慣れたあごと口元が露わになった。肌の色はやはり青緑色で、唇も血が通っていないかのように土色をしている。重力に従って顎が下がったが、開いた口から声が聞こえることはなかった。


「妃倭子さん、あなたの正体を見せてください。もし、あなたが無事に回復できるなら、私が必ず助けてみせます。広都君と約束したんです」


 そして茜は、妃倭子の黒い布袋を彼女の頭から取り去った。


三十一


 そこには、白濁した目を見開いて、叫ぶように大口を開けた、青緑色の女の顔があった。


「妃倭子さん……」


 茜は肩を震わせてわずかに後ずさりする。これが妃倭子の素顔。癖のある長い髪は乱れ、黒い泥のように顔の両側に貼り付いている。彫りの深い骨格をしており、くぼんだ目元と高い鼻のくっきりとした顔立ちが印象的だ。しかし般若はんにゃの面のように歪んだ表情は固まったように動かず、小さな瞳はそのまま真っ直ぐ正面を見つめていた。


「……初めてお目にかかりました。栗谷です」


 気を取り直して茜は挨拶する。当初はその表情に驚いたものの、落ち着いて向き合うと想像していたほど衝撃的ではなかった。恐ろしげな表情をしているが、それこそゾンビのように損壊していたり、腫瘍しゅようによって変形していたりはない。もっとも、たとえどんな顔であったとしても茜の信念が揺らぐことはなかった。


「そのお顔を、どうして広都君や私たちに見せてはいけないのか、私には理解できません。あなたは顔を隠す必要なんてなかったはずです」


 茜は手を伸ばして妃倭子の顔に近づける。裂けるほど大きく開いた目は瞬きすらしない。彼女はあの黒い布袋の中で、何も見えない外界を必死で見ようとしていたのだろうか。


「でも、その目の具合は危険です。乾燥し過ぎてかなり傷ついています。閉じられないのでしょうか……」


 その時、妃倭子の瞳がぐっと左に動いて茜の右手に焦点を合わせた。


「え?」


 そして茜が反応するより早く、妃倭子が首を伸ばして右腕に噛みついた。


「妃倭子さん!」


 腕を引くが間に合わず、妃倭子は昨日怪我をして包帯を巻いていた場所に歯を立てる。さらに両手で手首と肘の手前を掴んで引き寄せた。


 茜は燭台を床に落とし、さらに足をよろめかせて床に尻餅を付く。妃倭子もそのまま覆い被さってきた。妃倭子が動いた、いや、襲いかかってきた。振りほどこうとするが驚きと恐怖で力が出ない。左手で彼女の頭を押さえて引き離そうとした。


「どうしたんですか! 妃倭子さん! や、止めてください!」


 声を上げるが妃倭子はただ茜の右腕を凝視している。包帯からは赤い血がにじんでいた。その時になって、寝室に入る前にゴム手袋を着用し忘れていたことに気づいた。


 尋常ではない力に右腕が締め上げられ、歯を剥き出しにした顔が近づいていく。妃倭子の顔を見てはいけない。妃倭子に素手で触れてはいけない。引田から厳守されていた二つのルール。まさかこれがその理由なのか。ルールを破ると、妃倭子に襲われるということだったのか。


 突然、強い光が視界を覆った。


「何をしている!」


 寝室のドアの前で大声が響く。熊川が驚いた顔を向けている。頭上の巨大なシャンデリアが金色に輝いていた。暗闇から一転したまぶしさに目の前が真っ白になる。この部屋の照明は機能していたらしい。恐らく熊川が壁際のスイッチを入れたのだ。

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