第42話

 茜は豪勢な昼食には舌鼓したつづみを打ち、引田の世間話には相槌あいづちを打ちながらも、頭の中は答えの見つからない問題に捕らわれ続けていた。恐らくこれ以上、引田と熊川に何を尋ねても、こちらが期待する回答は得られない。広都も何か知っているかもしれないが、六歳児では難しい話ができるとは思えなかった。


 【ひだまり】の会社に電話をして高砂に尋ねても同じことだろう。スマートフォンも使えず、エントランスの固定電話から掛けるしかないのも気が引ける。結局、自分の力では何も知ることはできず、妃倭子を助けてほしいと言う広都の願いを叶えることもできそうになかった。


「引田さん」


 食事を続けていた熊川がフォークを止めて静かに呼びかける。


「今日の夕食、カレーライスにしようと思いますが、いいですか?」


「え?」


 茜が思わず声を上げる。熊川はちらりと目を向けた。


「何?」


「あ、いえ……」


「全然オッケーだよ。光江ちゃんのカレー、私大好きだからね」


 引田は嬉しそうに返事する。


「茜ちゃんも期待してていいよ。色んなスパイスが利いていてね、本当、絶品なんだから」


「へ、へぇ…それは楽しみですね」


 茜は誤魔化すように軽く笑ってうなずく。カレーライスは明日の当番で作るつもりだったが先を越されてしまった。さすがに二日連続はつまらないだろうし、味を比べられるのも嫌だった。


 ふと目を向けると、広都がこちらをじっと見つめていた。三人での会話の内容が気になったのだろう。茜は腕を構えて手話で話しかける。


『夜、ご飯、カレーライス。く、ま、か、わ、作る』


『明日、あ、か、ね、作る、ですか?』


『明日、作る、止める。また今度、作る』


『み、つ、えカレーライス、嫌です。辛い、味が違う、おいしくない』


「栗谷さん、何しているの?」


 熊川が避難するような口調で割って入る。茜は手を止めて彼女のほうを見た。


「ああ、ええと……広都君に、夕食は熊川さんがカレーライスを作ってくれるって……」


「また手話で?」


「そ、そうですね」


「あなたは……」


「凄ーい。茜ちゃん」


 引田が感心した様子で手を叩く。熊川は何か言おうとしていた口を閉じた。


「今のが手話なんだね。できないって言っていたのに、ちゃんと広都君とお話しできるんだ」


「合っているかどうか分かりませんけど。むしろ広都君のほうが先にマスターしてくれそうです」


「光江ちゃんのカレー、喜んでくれている? 今ちょっと嫌そうな顔していなかった?」


「いえ……あれはカレーライスを手話で伝える時の表情です。わざと辛そうな顔をするんです。広都君、カレーライスは好きだそうです。ただ、まだあまり辛いのは得意じゃないようですけど」


 茜は熊川に気を遣いながら説明する。広都はこの数時間でコツを掴んだのか、相手の言葉もすぐに読み取り、自らの手振りにも迷いがなくなっていた。子供ならではの習熟速度か、自分に必要なものだと思ってくれたのなら教えた甲斐もある。結果的に表情が増えたことも良かった。


「引田さん」


 熊川が再び暗い声で呼びかける。


「夕方の妃倭子さんの入浴介助、私と栗谷さんと代わってもらって良いですか?」


「え? 今日は私と茜ちゃんがする予定だったよね? 光江ちゃんが代わりに引き受けてくれるの?」


 引田が不思議そうに尋ねる。突然の申し出に茜も理解が及ばない。熊川は小さくうなずいた。


「……でも、光江ちゃんは私たちの夕食も担当だよ? そっちを茜ちゃんに任せるの?」


「もちろん夕食も私が作ります」


「そう? 大変じゃない?」


「いいえ、カレーライスならそんなに手間がかからないので。栗谷さんが来る前まではそれが普通でした」


「それはそうだけど……でもどうして?」


「いけませんか?」


 熊川は断固とした態度で訴える。彼女はいきなり何を言い出したのか。先日の入浴介助ではあれほど嫌そうにしていたのに。引田は小声でうーんと唸ると、窺うような顔を茜に向けた。


「私は、どちらでも結構ですが……いや、でも入浴介助は私がやります。手順も教わりましたので大丈夫です」


「私が代わるから」


 熊川がきっぱりと言い放つ。


「栗谷さんは、手話でも何でもやって遊んでいればいい」


「……私がやって、何か問題があるんですか? 説明していただけたら直します」


「あなたには、妃倭子さんに近づいてほしくない」


「な、何ですか、それ……」


「あらら、二人で妃倭子さんを取り合ってるみたいだね」


 引田はまた見当違いの感想を嬉しそうに漏らす。


「茜ちゃん、どうする? 私はどっちでもいいと思うんだけど。それとも茜ちゃんと光江ちゃんの二人でやってくれる?」


「……いえ、そこまで仰るなら、入浴介助は引田さんと熊川さんにお任せします。私は、また次回に引き受けます」


 茜は努めて平静を装って返答する。ここで熊川と言い争っても仕方がない。彼女はこちらから揉め事を起こしたり、屋敷から出て行ったりするのを期待しているのだろう。その手に乗るつもりはなかった。


「そう? じゃあ茜ちゃんは午後からのんびり過ごして良いからね。光江ちゃんも言ったけど、広都君と手話で遊んでいてもいいし、お昼寝しててもいいよ。実は私も、いつもご飯のあとは部屋で寝てるんだよ」


「そうなんですね。私は、部屋の片付けでもしています。まだ開けていない荷物もありますから」


「必要な物があったら言ってね」


「大丈夫です。お昼寝の邪魔はしませんので」


 茜が返すと引田はあははと闊達かったつに笑う。熊川はちらちらとこちらに目線を送りつつも、黙って昼食を続けていた。


 今や熊川は茜をはっきりと敵視して、この屋敷から追い出そうとしている。その理由は茜自身への嫌悪ではなく、この屋敷と妃倭子に隠された謎をあばかれることを恐れているからに違いなかった。


 しかし茜も引き下がるわけにはいかない。詮索趣味でもなければ正義感でもない。妃倭子と広都の母子のためにも知る必要があると思っていた。もしも隠された謎が全くの無関係で、ひとつの解決にもならなかったとしたら、謝罪して今後は一切他言しないと誓っても良い。ただ、熊川の態度を見ればそんなはずはないと確信していた。


 そして味方はおらず、打つ手はなく、手詰まりかと思ったが、熊川の発言でもう一人、ただすべき相手がいることを思い出した。


 全ての原因。暗闇に閉ざされた寝室で眠り続ける屋敷の主、宮園妃倭子自身がまだ残っていた。

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