第41話

「引田さん……ちょっと伺ってもいいですか?」


「んー? あらたまってどうしたの?」


 引田は妃倭子に食事を与えながら穏やかに返事する。その顔はまるで赤子に授乳する母親のように緩んで見えた。


「……真田駒子さんって、どなたですか?」


「え、サナダコマコさん……どなたって……どなた?」


 引田は首を傾げる。茜はその表情を横目で見つめていた。


「本当に、ご存じありませんか?」


「えー……あ、前にうちのお客さまになった方のこと? 確かそんなお名前だったかと思うけど」


「そうです。多分その方です」


「だよね? でもどうして茜ちゃんがそのお名前を知っているの?」


「……熊川さんからお伺いしました」


 茜はさらりと嘘をいたが、引田は疑うことなくふんふんとうなずく。慌てて何かを隠そうとする素振りも見せず、ごく普通に名前を思い出したような態度だった。


「真田さんなら光江ちゃんのほうが詳しいんじゃないかなぁ。私はその時、他の方の介護を請け負っていたからよく知らないよ」


「真田さんが、今の妃倭子さんと同じようなご病気にかかっていたのはご存じですか?」


「そうみたいだね。だから同じように介護を受けておられたと思うよ」


「どういうことでしょうか? このご病気ってそんなに有り触れたものとは思えないんですけど」


「それはそうだよ。妃倭子さんみたいな人がたくさんおられたら大変。私たちも手が足りなくなっちゃうよ」


「それと、真田さんもこのお屋敷で介護を受けておられたようなんですが」


「うん。そう、確かそうだったはず」


「では真田さんは妃倭子さんのご身内なんでしょうか?」


「ううん、違うんじゃない? そんな話は聞いていないよ」


「え? でもこのお屋敷は妃倭子さん……宮園家のものですよね?」


「そう、妃倭子さんのお家。お金持ちって良いよねぇ。私なんて実家も小さなマンションだから、こんなお家に憧れるよ。茜ちゃんはどう?」


「あ、いえ……」


 笑顔で話す引田に茜は奇妙な感覚を抱く。この人は何を言っているのだろう。質問すればためらうことなく返答してくれるが、なぜかその言葉に納得できないものを感じてしまう。誤魔化ごまかしている様子もないが、彼女と話していても真相に辿り着けるとは全く思えなかった。


「まぁ、私は真田駒子さんのことは名前しか知らないからね。もう介護も終わっているし、茜ちゃんには関係のないことだよ」


「しかし……」


「ほら茜ちゃんの悪い癖。あんまり思い詰めちゃ駄目だよ」


 引田の明るい声が耳を通り抜ける。そう、彼女には疑問がないのだ。熊川は一切の質問を拒否したが、引田は全てを認めて肯定してくれた。しかし彼女自身はその事実に対して何一つとしておかしいとは感じていないようだった。なぜ宮園妃倭子と真田駒子が同じ病気を患っているのか。なぜ二人とも同じ屋敷で同じ会社から介護を受けているのか。それを不思議とも思わないのが茜には理解できなかった。


「高砂さんが見たら叱られるよ。【ひだまり】では笑顔が基本。スマイル、ハッピーよって。あの人いつも同じこと言うんだから」


「は、はぁ……」


 茜は引田から目を逸らす。思い返せば、彼女は常にそんな人間だった。妃倭子に対して献身的な介護に勤め、屋敷での雑務にも熱心に取り組んでいるが、それ以外の事柄には全く触れようともしない。初めの内はそれが介護ヘルパーとしてあるべき姿と感じていたが、関心すらも欠落したような彼女の精神が今は酷く不気味に思えていた。


 その時、視線の先にあった妃倭子の左手が、ぴくりと指を折り曲げた。


「あ……」


 茜は目を見開いて凝視する。振動を受けて揺れたわけではない。今、妃倭子がかすかに指を動かした。三日目にして初めて、あの夜の徘徊を除けば確実に、彼女が自発的に動作するのを目撃した。素早く視線を動かして腕から首元、そして漏斗の突き出た口を見たが、他には全く変化はない。もう一度指先まで見直したが、もうそれ以上は何も変化はなかった。


「はぁい、妃倭子さん。お昼ご飯はこれでおしまいです。美味しかったですかぁ」


 引田がボウルの中身を全て流し終えてから声をかける。茜は静かに妃倭子の口から漏斗を引き抜いてカート上のトレイに置いた。引田は妃倭子が指を動かしたことに気づいていない。茜は口を噤んで妃倭子をベッドに寝かせると、彼女の手を隠すように静かに布団を掛け直した。引田に報告しなかったのは、それが何となく、妃倭子から自分だけに向けられたメッセージのように思えたからだ。


「……引田さん、あと一つだけお伺いしてもいいですか?」


 その代わりに、茜は別の質問を投げかける。


「今、真田駒子さんは、どうしてこのお屋敷にはおられないのでしょうか?」


「どうして? それはだって、もううちの介護を受ける必要もなくなったからだよ」


 引田は当然といった表情で返答する。


「ということは、やはりお亡くなりに……」


「いやいや、元気になったから介護も終わったんだよ」


「え?」


「茜ちゃんはすぐにそっちのほうに考えちゃうんだねぇ」


「いや……でも、回復されたんですか? 真田駒子さんは」


「もちろん。今はお子さんも生まれて幸せになられたって。高砂さんからそう聞いてるよ」


「子供まで……」


 茜はそれ以上言葉が続かない。元気になった? 子供も生まれた? 幸せになった? これは不治の病ではなかったの? 妃倭子もあの状態から回復する可能性があるの? 事実が想像を上回り、思考が追いつかない。まさか引田が嘘を吐いているの? それとも高砂が引田に嘘を吐いているの? 誰を信じればいいのか、真相はどこに存在するのか。激しい頭の混乱が腕にまで伝わり、カートを押す手元まで小刻みに震えていた。


二十九


 妃倭子の昼食介助の後は介護ヘルパーたちと広都の食事が始まる。キッチンでは熊川がてきぱきと料理をこなしており、茜たちが片付けを終えて席に着くタイミングを見計らって皿に盛り付けてダイニングのテーブルに並べていった。今日は野菜とベーコンを使ったキッシュに、小エビとたらのフリッター。ミニトマトとモッツアレラチーズとバジルを串に刺したカプレーゼに、ジャガイモを使った冷製スープだという。熊川は料理に関してだけは手間を厭うこともないようだ。

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