第40話

 ぎゅっと、ズボンの裾を引っ張られる。広都が無表情のまま、じっとこちらを見上げていた。事情を理解していない彼も、熊川との間に流れるただならぬ雰囲気を感じ取ったのだろう。大人同士の言い争いは子供部屋ですべきではないと気づいた。


「栗谷さん」


 低く、重く、思ったよりも静かな声で熊川は呼びかける。


「屋敷から出て行って。あなたにここで仕事はさせられない」


 そしてふいと顔を背けるとドアを閉めて立ち去った。茜は閉まったドアをしばらく見つめたあと、溜息をついて広都を見下ろした。


『……私、ママ、助ける……絶対に』


 茜は手振りで伝えると口角を無理矢理持ち上げて笑顔を見せる。広都は口も手も動かすことなく、小さな目をこちらに向けていた。覚えたての手話は果たして通じただろうか。でも、きっと思いは伝わったはずだ。


二十八


 熊川光江は何かを隠している。それはこの屋敷と宮園妃倭子に関係していることに違いない。彼女は真田駒子の名を聞くなり激しく狼狽ろうばいし、茜に対して関係ないと言っておきながら、屋敷から追い出そうと脅しかけてきた。


 真田駒子も宮園妃倭子と全く同じ病気を患っており、同じくこの屋敷で介護を受けていたらしい。しかし現在、この屋敷には宮園妃倭子しかいない。真田駒子はどこに消えたのか? 真っ先に想像できるのは、すでに死亡しているかもしれないことだ。妃倭子の状態を見る限り、いつ心肺機能が停止しても不思議ではないように思えた。


 また真田駒子と宮園妃倭子は身内の可能性が高い。血族であればこの屋敷で同じ介護を受けていても不思議ではないからだ。名字の異なる母娘か、姉妹か、親戚か。もしそうであるならば、あの謎の病気に遺伝的要因の疑いも生じてくるだろう。


 不気味なのは、なぜそれらの事実が自分には隠されているのかということだ。名家と称される宮園家に代々伝わる、特殊な遺伝性疾患が世に知られるのを恐れているのか。住み込みを始めて三日目の新人にまで説明する必要はないと思われているのか。だから熊川は頑なに、知らない、関係ないと否定し続けていたのか。


 しかし所詮は無関係な介護ヘルパーの熊川があそこまで取り乱すのは尋常ではない。彼女の顔には明らかに、何かを恐れる色が浮かんでいた。


 この屋敷には、宮園妃倭子の病気には、何かが隠されている。ここへ来てから抱き続けている違和感も全てそこに繋がっている。恐らくそれが妃倭子と広都を助けるヒントにもなるはずだ。もう遠慮はしていられない。真実を知るために行動しなければならなかった。


 妃倭子の昼食介助も朝食と同じく茜と引田が担当することになっている。キッチンへ行くとすでに引田が食事の準備を始めており、妃倭子専用に貯蔵している保冷パック詰めの肉塊を解凍してボウルに移していた。


「すいません、引田さん。遅くなりました」


「ううん、全然遅くないよ。茜ちゃんは時刻通り。お掃除お疲れ様でした」


 引田はいつものように屈託くったくのない笑顔で返答する。午前の虫騒動からもすっかり立ち直ったようだ。


「でも茜ちゃん、今日はお庭でお掃除してなかった? 雨、大丈夫だった?」


「あ、いえ……掃除は早々に切り上げて、その、広都君に会っていました」


「ああ、そうなんだ。良かったー。雨の中でお掃除しているんじゃないかって心配だったの。止めにして良いからね。広都君と遊んでいたの?」


「そうですね。せっかくなので手話を教えていました」


「手話! へぇ、茜ちゃん、手話もできるの?」


 引田は両手を無意味にぱたぱたと振りながら言う。恐らく手話の真似事をしたのだろう。茜は首を振った。


「できません。だから一緒に習っていました」


「ふぅん。面白いこと思いついたねぇ。広都君も喜んでくれた?」


「多分、気に入ってくれたんじゃないかと。手話が使えたら広都君ももっと積極的になれるかと思って」


「あの子はこれから大変になるだろうしね。いいと思うよ。私もやってみようかなぁ」


「ぜひ。広都君も交えてみんな手話で話し合えたら楽しそうです」


「そしたらお屋敷がますます静かになっちゃうね」


 引田と茜は笑い合う。そう、これが普通だ。彼女の反応は極めて真っ当に思える。余計なことをするなと叱った熊川のほうがやはり異常だった。


 左足を負傷している引田に代わって茜が食事用のカートを押す。エントランスからリビングへ入り、マスクとゴム手袋を着けて寝室のドアを開けた。今回は羽虫が燭台に飛び込んでくることもなければ、ノイズのような羽音も聞こえては来なかった。


「茜ちゃん、大丈夫かな? また布団から虫がうじゃうじゃ出てこないかな?」


「大丈夫です。窓を開けて全部追い払いましたし、妃倭子さんの体から湧いて出たわけでもありませんから」


「妃倭子さんが無事で良かったけど、本当にどこから入って来たのかなぁ」


「あれは……広都君がこっそり入れたみたいです」


「え、広都君がそんな悪さをしたの?」


「いえ、悪さというか、ほんのたわいもない行為だったと思います」


 茜は弁明するように言葉を付け加える。


「妃倭子さんや私たちを怖がらせたり、困らせたりするつもりはなかったはずです。何と言うか、きっと寂しかったんだと思います。虫もあの子にとっては玩具みたいなものですし、男の子にはそういうところもあるんじゃないでしょうか」


「ふぅん……今までそんなことしなかったんだけどねぇ。もしかすると茜ちゃんに構って欲しかったのかもね」


「そうなんでしょうか……一応、あんなことをしてはいけないと伝えましたけど」


「ありがとう、それでいいと思うよ。なんだ、ちゃんとお仕事しているじゃない、茜ちゃん」


 引田はそう言って微笑む。広都は本当に構って欲しくて妃倭子の布団に虫を入れたのだろうか。引田にあっさりと肯定されたことで、かえって茜は男児の心境が不可解に思えてきた。


 寝室の燭台に火を灯して回り、ベッドのカーテンを開けて妃倭子と対面する。いつものように返答のない挨拶を掛けたあと、布団を剥いでマネキン人形のように固く冷たい彼女を座らせた。それからヘッドボードの縁に後頭部をのけぞらせて、頭部を包む黒袋を口元まで上げる。自然とあごが下がって開いた口内からは排水口のような湿った悪臭が漂っていた。


 ふと目を落とすと、シーツの上にジガバチの死骸が一匹、黒い糸屑のように落ちていた。妃倭子の体の下で死んでいたのか、朝に掃除した時には見つけられなかったようだ。茜はさっと手で払って床に落とすと、足でかすめるように蹴ってベッドの下に隠す。ボウルに入った生肉のスープを機嫌良く混ぜている引田には気づかれずに済んだ。


「それでは妃倭子さん、お昼ご飯をお召しあがりください。失礼します」


 そう声を掛けてからステンレス製の漏斗を、正式にはクスコ式膣鏡を妃倭子の喉の奥にまで挿し込む。引田はボウルに入った赤黒い液体をスプーンで掬うと、漏斗の壁に沿ってとろとろと静かに流し始めた。一気に入れると穴が詰まって溢れるので、時間をかけてゆっくりと与えていく。その間、茜は漏斗を支え続けていた。

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