第39話

二十七


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 八月二十日


 この屋敷には何かある。


 分からない。だけど、何か普通じゃないことが起きている。


 たとえば小さな地震が何度も起きていると思っていたら、実はどこかで火山が大噴火を起こしていたような。今日は赤ちゃんが大人しく眠っていると思っていたら、喉がつかえて苦しんでいたような。


 そんな、ささいな出来事が、得体の知れない大きな事態に繋がっているような予感。


 それがこの屋敷へ来てからずっと続いている。


 私の考えすぎ?


 でもこんな山奥の屋敷で、住み込みのヘルパーを雇ってまで介護をさせるなんて、やっぱりどう考えても不自然。


 真田駒子さなだこまこさん。あれはただの全身麻痺じゃない。あの青緑色の肌は異常。あんな重病人をこんなところに閉じ込めておいていいの? 麓の病院に入院させなくていいの? 大体あれは何の病気なの?


 介護の方法も何だかおかしい。素手で触れてはいけないのは分かる。光を当ててはいけないのも分かる。でもあんな袋を頭に被せて、絶対に顔を見てはいけないってどういうこと? もし顔を見たらどうなるの?


 それに、あの肉。毎日何の肉を食べさせているの?


 身内の人はどうして一度も現れないの? 会社はちゃんと連絡を取っているの?


 どうして夜に部屋から出てはいけないの? みんな私に何を隠しているの?


 分からない。何もかも分からない。でも絶対に何か起きている。それがとてつもなく怖い。


 私はどうしたらいい? 駒子さんを屋敷から連れ出して入院させるべき? 全部忘れて一人でここから立ち去るべき? 気にせずに介護を続けるべき?


 頭がおかしくなりそう。


 明日、熊川ちゃんに電話で相談してみよう。

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 何だこれは?


 茜は紙片に書かれていた文章を読んで呆気に取られた。屋敷の謎、要介護者の謎、介護ヘルパーの謎、全体に漂う違和感の謎。まるで自分が書いたのかと錯覚するほど、そこにはこの三日間の疑問がはっきりと書かれていた。


 すぐに段ボール箱から他の紙片を取り出して確認したが、同じ筆跡の文章が書かれた物は見つからない。スーパーマーケットのチラシや包装紙ばかりで、似たようなノートの切れ端も存在しなかった。


  一体これはどこから出て来たの? 誰が書いたの? 不思議なのは、間違いなく今、この状況を書き記した物であるはずなのに、一箇所だけ全く違う言葉が紛れ込んでいることだった。


 真田駒子。まるで聞き覚えのない名前だが、その症状は宮園妃倭子と完全に一致している。全身麻痺と青緑色の肌、さらに三つのルールまで共通している。屋敷で介護を受けていることも、肉だけを食べさせていることも、身内の存在が分からないことも同じだった。


 真田駒子とは誰? なぜ、そんなことが起きているの? 紙片の文字がにわかに乱れて、知らずと手が震えていることに気づく。何かがおかしい。しかし何がおかしいのかすら分からない。その感覚までここに書かれている言葉と一致していた。分からない。何もかも分からない。でも絶対に何か起きている。それがとてつもなく怖い。


「ね、ねぇ広都君」


 茜は広都に向かって尋ねる。


「この紙って、どこで拾ってきたか覚えてない? このお屋敷で見つけたものだよね? 他にも同じ紙があったんじゃないかって思うんだけど、知らないかな?」


 しかし彼は不思議そうにこちらを見上げるだけで返答しない。耳が聞こえないのだから当然だ。手話で伝えようにもジェスチャーが分からない。いや、筆談にすればいいと気づいてチラシの裏紙と鉛筆を手にした。


「何をしている?」


 突然、遠くから声が聞こえて茜は慌てて顔を上げる。ドアを開けて熊川が部屋を覗き込んでいた。


「声がしたかと思って見たけど、栗谷さん、こんなところで何をしている? 今は掃除の時間でしょ」


「は、はい。お庭の掃除をしていたんですけど、雨が降ってきたので……」


「雨が降ってきたから勝手に止めてサボっていたって? 他にもすることはあるのに」


「サボっていません。広都君に手話を教えていたんです」


「手話って、何?」


「え? あ、手話っていうのは、手を使って会話をすることです。これで耳の不自由な人でも……」


「そんなことは知っている。何でそんなことをあなたがしているの?」


 熊川は片方だけ眉を上げて苛立たしげに質問する。茜は自然とその場で正座を作る。部屋の空気を察したのか、広都はうつむいて口をつぐんでいた。


「どうして栗谷さんがそんなことを? それがあなたの仕事? 誰からそんな命令を受けたの?」


「命令なんて……仕事かどうかは分かりませんけど、広都君も手話が使えた方がいいと思ったから教えていました」


「何でそんな余計なことを」


「余計って……何かいけなかったですか?」


「私たちの仕事は妃倭子さんの介護と屋敷の管理。その子もついでに面倒を見ているだけ。手話を教えるなんて仕事に含まれていない。仕事中に関係ないことをするのは職務放棄しょくむほうきでしょ」


「でも手話が使えたら会話の幅も広がるし、広都君の将来にも役立つとは思いませんか?」


「その子の将来なんて、私たちの仕事には何の関係もない」


「妃倭子さんには関係あるじゃないですか!」


 茜は両手の拳を握って反論する。


「介護は病院の治療とは違いますよね? 患者が回復すればそれで終わりってわけじゃないですよね? 介護ヘルパーは要介護者をお世話しながら、その人が幸せな生活が送れるようにお手伝いをするんじゃないんですか?」


「幸せなんて……」


「妃倭子さんの幸せは、広都君です。私は妃倭子さんに安心してもらいたくて、広都君に手話を教えたいんです」


「……妃倭子さんは、広都君のことなんてもう覚えていない。あなたに何が分かるの?」


「じゃあ……熊川さんは何を知っているんですか?」


 茜は例の紙片をポケットに隠しつつ、ゆっくりと腰を上げる。


「熊川さん、真田駒子さんって誰ですか?」


「どこで、その名前を?」


 熊川は驚いた様子で目を大きくさせる。あの文章の最後には、はっきりと熊川の名前が書かれていた。


「まさか広都君が?」


「広都君じゃないです。誰ですか? 今、どこにいるんですか?」


「知らない……」


「その人も妃倭子さんと同じ病気を患っていたんですか? 【ひだまり】の介護を受けていたんですか?」


「知らないって言ってるでしょ」


 熊川は歯を食い縛ったような顔つきで首を振る。いつもの冷めた様子とは違い明らかに動揺していた。


「……あなたには関係ないことだから。もうその名前は忘れなさい」


「教えてください、熊川さん。どういうことなんですか? 真田駒子さんもこのお屋敷にいたんですか? でも……どうしてそんなことになっているんですか?」


「やめなさい、栗谷さん」


「熊川さん……あなたは何を知っているんですか?」


「やめろ!」


 どんっと壁を叩いて熊川は激昂げっこうする。顔を真っ赤に染めて、眉間に皺を寄せて、今にも泣きそうな表情でにらんでいる。どうしてそこまで。茜は彼女の過剰なまでの反応にややひるんだが、それで言いなりになるつもりはもうなかった。

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