第38話
『ひ、ろ、と』
手話を使って呼びかけると、彼はこくりとうなずいた。
『ひ、ろ、と。ママ、布団、虫、入れた、ですか?』
茜は笑顔のまま、一単語ずつ区切りを付けて丁寧に伝える。広都は目を大きくさせて唇を噛んだ。やはり、そうだったのだ。妃倭子の布団から大量の羽虫が飛び出したのは広都の仕業だった。
『怒っていない、怒っていない。私、虫、知っている。ひ、ろ、と。絵、描いていた』
あの赤褐色の羽虫は、書庫で見た広都のスケッチブックの中で見覚えがあった。精緻とは言い難い子供の絵だったが、その特徴的な腰の細さと色の塗り分けが共通していた。
『ジ、ガ、バ、チ』
指文字で伝えると広都は本と見比べながら読み取ろうとする。確かそんな名前だったと記憶していた。
『ジ、ガ、バ、チ。ひ、ろ、と。絵、上手。だから、分かる』
恐らく屋敷の庭かその近辺に多く生息している昆虫なのだろう。昨日、包丁男に襲われたあとにこの部屋へ駆け込んだ際、広都の周囲には虫カゴや虫取り網やゴミ袋などが散乱していた。あのゴミ袋の中に集められていたのかもしれない。
『ひ、ろ、と。ママ、嫌い、ですか?』
茜は穏やかな表情で広都に尋ねる。動けない母親の布団の中に虫を入れるなど敵意の表れとしか思えない。まさかプレゼントのつもりではなかっただろう。彼は眉を寄せて両手をわなわなと動かしている。手話ではない。言葉にできないもどかしさがその動作から窺えた。
『ひ、ろ、と。ママ、病気。だから、優しく、優しく』
すると広都は脇に置いていた図鑑を取り上げて床に広げる。中身は昆虫図鑑らしく、様々な虫たちが写真付きで掲載されていた。ばさりばさりと大きなページを捲って、見つけた一匹の写真を指で示す。そこには例の黒い羽虫が、よく似た他の種類とともに並んでいた。
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●ジガバチ
体長:十九~二十三ミリ。分布:北海道~九州。活動:五月~九月。
寄生バチの仲間。毒針を刺して動けなくしたガの幼虫などを地中に掘った穴に入れて、その体の上に卵を産み付ける。ガの幼虫は死んでいないが毒で動けないので、卵からかえったジガバチの幼虫はそのままガの幼虫を食べて成長する。成虫は人間をめったに刺さない。
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茜は図鑑の紹介文を読んで寒気を覚える。生きながら卵を産み付けて幼虫の餌にするとは不気味な生態だ。ミツバチやスズメバチほど名前は知られていないが、人間を刺すこともあるようなので、広都も触れるべきではないだろう。
『虫、危ない。ママ、可哀想。広都、駄目』
胸の前で両手を交差させて×のマークを作る。手話でもダメはバッテンと表現するらしい。もう少し柔らかい言葉で伝えたいが、その方法はまだ分からない。代わりに笑顔を絶やさずに、怒ってはいないことをアピールし続けた。
広都は真っ直ぐにこちらを見上げたまま、手を広げたり握ったりを繰り返している。手話が理解できなかったとは思えない。善悪の判断が付かない子とも思えない。それでも素直にうなずくことなく返答を迷っている風に見えた。
彼は茜の側にあった段ボール箱を手元に寄せると、中に入っていたノートの切れ端を取り出す。そして鉛筆で文字を書いて差し出した。
【ママたすけて】
「助けて……」
ぎゅっと胸を締め付けられる感覚を抱いた。広都が書いた必死の文面。手話で伝えなかったのは、遊びではなく本気の思いだからだろうか。
そうだ。やはり彼が本当に望んでいるのは母親の回復だった。あの黒い布袋を取って顔を見せて欲しい、抱き締めて頭を撫でて欲しい。まだ六歳の、しかも耳の聞こえない男の子だ。あの鬼母のような絵も、ジガバチの悪戯も、本心からの憎しみではない。叱られてでも振り向いて欲しいという、切なる願いがそうさせたのだと気づいた。
広都は眉根を寄せてこちらを見つめている。しかし、今の自分に何ができるだろうか。妃倭子を麓の町の病院に入れて治療をさせるのか? 広都を宮園家の親類縁者に引き取らせるのか? 屋敷へ来たばかりの新人ヘルパーにそんな権限はない。隠されていることが多過ぎて何が正解かも分からない。男児の想いに応えたいだけではどうにもならない現実があった。
その時、手にした紙片の裏面に何か手書きの文字が書かれていることに気づいた。広都は屋敷で見つけた不要な紙を集めては、何も書かれていない裏面を筆談用のメモに使っているらしい。何気なく裏返してみると、紙の上の方に誰かが走り書きした文章がしたためられていた。
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【この屋敷には何かある】
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文章の最初に書かれたその文字に茜の目が引き付けられた。
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