第37話
「広都君、どうしたの? お腹でも痛いの?」
茜は尋ねるが、広都は気まずいような表情のまま動かない。顔色には変わりなく、特に体調不良というわけでもないようだ。茜は笑顔を見せるとうなずいて小さな手を軽く握る。彼はしばらく迷うような素振りを見せていたが、やがて諦めたのか、のろのろとベッドから
「かくれんぼでもしていたのかな? でも探してくれる人がいないとつまんないよね」
茜は床に腰を下ろして親しげに話しかける。広都はやや離れたところに座って警戒するような眼差しを向けていた。
「昨日はごめんね。いきなり抱きついたりして。熊川さんから聞いたと思うけど、広都君が悪い男に捕まっていないか心配だったの。何も見ていないって聞いて安心したよ」
茜は鈍感な風を装って、気にせずに話を続ける。
「でも逆にびっくりさせちゃったね。広都君のお耳が聞こえないことも忘れていて、これじゃ私が悪者みたいに思うよね。だから謝っておこうと思ったの。怖がらせてごめんね。本当は私、広都君と仲良くしたいんだよ」
広都はじっとこちらの顔を見つめている。そうしない相手の態度が全く分からないからだ。しかし当然、顔を見ても茜が何を言っているのかは分からない。口の動きを見ても内容が難しくて判断できないだろう。やがて彼は床に置いていた段ボール箱を示して茜のほうに押しやった。
「ん、何かな?」
底の浅い段ボール箱には大小様々な白い紙の束が収められている。何枚か取り出してみると、ノートの切れ端や麓のスーパーマーケットのチラシやティッシュ箱を折り目で裂いて広げた物だと分かった。広都はどうやらこれらの紙の裏をメモ代わりに、いや、筆談のための用紙に使っているらしい。彼は続けて大きな筆箱から鉛筆を出して手渡してきた。
「うん。書いて話してってことだね。でもいいんだよ。いらないんだよ」
茜はゆっくりと口を動かしてそう言うと、箱と鉛筆を脇に避ける。そして不思議そうな顔を見せた広都の前に一冊の本を出して見せた。
「分かるかな? 今日はこれを使って話してみない?」
それは書庫で見つけた手話の本だった。大判サイズで絵と平仮名を多く使っており、初めて手話に触れる幼児や小学生に向けて作られたテキストだった。
「ほら見て、これ、手を使ってお話する方法なんだよ」
広都は不思議そうに本とこちらを見比べている。どうやら初めて目にしたらしい。本は屋敷にあった物だが発行年から見ても彼のために蒐集された物ではなかった。茜は本を広げて読むべきポイントを指差した。
「いい? よく見てね。私、名前、あ、か、ね、言います」
胸を指さし、左の手の平に右手の親指を押し付ける。名前は五十音表にならって一文字ずつ指で示した。昨夜に一通り読んで表現方法を覚えている。何度か同じ動作を繰り返すと広都も納得したように大きくうなずいた。
『僕、名前、ひ、ろ、と、言います』
「そう! そうだよ。凄いじゃない!」
茜は拍手してから両手を上下に動かして嬉しさを示す。思った以上に飲み込みが早い。広都は体に覚え込ませるように自分の名前を何度も繰り返していた。
『私。ひ、ろ、と。友達、なりたい』
『僕。あ、か、ね。友達、なりたい』
『よろしく、おねがいします』
『よろしく、おねがいします』
お互いに本と相手を交互に見ながら、覚え立ての身振り手振りで挨拶を交わす。広都のこけしのように冷めた目が興味に輝くのが分かった。
二十六
午前というのに窓の向こうは暗みを増して、部屋に流れ込む空気に埃っぽさを感じる。雨は一旦収まったようだが本降りの予兆はますます強く感じられていた。
茜と広都は子供部屋の床に座って手話での会話に挑戦している。『家』『山』『花』『おにぎり』『自動車』『広都は部屋で絵を描く』『茜は自動車で買い物に行く』。広都は夢中になって本を読み進め、次はこれ、次はこれと言葉を選んでは二人で動作を真似ていた。どちらも初心者なので動きは大きく
『あ、か、ね、料理、おいしい』
『ありがとう。く、ま、か、わ、料理、もっと、おいしい、ですか?』
『み、つ、え、料理、普通。ち、え、こ、料理、一番、おいしい』
「へえ、そうなんだ」
茜は思わず声で返答するが、広都はまるで耳が聞こえているかのようにうなずく。会話が成り立っていれば相手の表情だけで理解できることを知った。
『ち、え、こ。料理、何が、好き、ですか?』
『カレー、そば、違う、焼きそば』
『私、作る、カレー、明日』
『嬉しい。カレー、辛い、駄目』
「オッケー」
茜は指で輪を作って笑う。オッケーは共通語らしい。広都は笑顔を見せないものの、新しいコミュニケーション方法を知った興奮と感動に頬を上気させていた。恐らくこんな単純な会話すらも今までしたことがなかったのだろう。引田はお利口さんでいい子、手間がかからなくて助かると話していた。その評価も間違いではないが、彼は誰かと雑談を交わすこともできなければ、希望や不満を訴えることもできなかったのかもしれない。六歳児の筆談では連絡事項の役割しか果たせない。介護ヘルパーの手を止めさせてまで感情を伝える手段がなかったのだ。
うつむいて熱心に本を読む広都の小さな後頭部を見て、ふと茜は撫でてみたい心境に駆られた。驚かせてしまうかな? それとも怖がらせてしまうかな? ゆっくりと右手を伸ばして柔らかい髪に触れて、二、三度後ろに撫でつける。広都は気づいていないかのように何の反応も示さない。それよりも本を読むほうが大事なのだろう。手の平に温かい子供の体温を感じた。
もしも、あの子が生まれていたなら、こんな日もあったのだろうか。雨の降る日に二人で本を読んで、手遊びをして、小さな頭を撫でていたのだろうか。割り切っていたはずの思いに捕らわれて、忘れていたつもりの感情が胸に込み上げる。しかし理性がそれを押し留めて、男児の頭から手を離した。この子は、あの子じゃない。この子の頭を撫でるのは、私であってはいけなかった。
「広都君」
代わりに彼の肩を叩いてこちらを見上げさせる。この子の母親は他にいる。それが今ここへ来たもう一つの理由だった。
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