第36話

「な、何? 茜ちゃん」


「虫です。虫が、妃倭子さんの体から……」


「中から出て来たの? 嘘……妃倭子さん、妃倭子さん!」


 引田は血相を変えて妃倭子の体から虫を追い払う。茜は呆気に取られてその場に固まっていた。


 人間や動物の死体からウジというハエの幼虫が湧き、成長して飛び出すことがある。湧くといっても実際に無から湧き出てくるのではなく、あらかじめ成虫のハエが取り付いて大量に産卵することで発生する現象だ。また死んでいなくても病気や怪我で特定の部位が壊死すると、そこから同じようなことが起きる場合もある。当然、健康な人体にそのようなことはない。ウジは腐食した肉しか摂取できないからだ。


 茜は昔に習った乏しい医学知識を総動員させて思考する。まさか妃倭子の体が病気で腐って、いつの間にか生み付けられたハエの卵が孵化ふかして成長したのか? しかしどれだけ成長が早くても、昨夜の夕食後から数時間で成虫になるとは思えない。茜は食事介助に付き合っていないが、白くて小さな芋虫のようなウジが大量に現れたら引田も熊川も見逃すはずがない。さらに二日前には妃倭子の入浴介助を行っている。腐ったような青緑色の肌をしていたが、確実に腐敗した部位は見当たらなかった。もし卵が付いていても綺麗に洗い流されたはずだ。


 いや、そもそもこれはハエではない。


「良かった……妃倭子さん。どこも悪くないみたい。ごめんなさい。気持ち悪かったでしょうね」


 引田は安心したように声を上げる。払いのけられた羽虫たちはまだベッドの周囲を飛び交っているが、再び妃倭子の体に戻る様子はない。もしこの羽虫がハエならそんなことはない。見つけた獲物は逃すことなく、鬱陶うっとうしいほど付きまとってくるはずだ。


 茜はカーテンの端に止まった羽虫を見る。大きさはハエを一回り拡大したくらいだが、形は全く異なっている。全体的に黒色で胸部と腹部が大きいが、その繋ぎ目が極端に細くくびれて、ほとんどくだのようになっていた。奇形か発育不良かと思ったが他の個体も同様なのでそういう種類のようだ。腹部は上半分が赤褐色せきかっしょくで下半分が黒色に分かれており、細長いはねが背中から後方に伸びていた。


 ハエの仲間か、あるいはハチの仲間だろうか? しかし人を襲う様子はない。不思議と見覚えのある気がする。あれは確か……。


「ねぇ茜ちゃん。妃倭子さん、念のためにお風呂へ入ってもらおうか。その間に虫も追い払えるからね。手伝ってくれる?」


「は、はい。そうですね……私、ストレッチャーを持って来ます」


 茜は思考を止めて浴室へ向かう。今は虫の種類を考えている場合ではない。大丈夫。知識はないが、恐らくあの羽虫は妃倭子の体から発生したものではない。腐肉を食べているわけでもなければ、卵を生み付けているわけでもない。何より、勝手に掛け布団の中に侵入したわけでもない。


 羽虫はわざと入れられたものだと気づいていた。


二十五


 その後、茜と引田は妃倭子を入浴させて体を洗い、羽虫を寝室の窓から外へ出して、改めてベッドの上で朝食の介助を行った。予想通り、妃倭子の体に現状以外の異変はなく、羽虫が寝室に戻ってくることもなく、介護はとどこおりなく終えられた。寝室を出ると引田は安心した様子で、熊川にもやや誇張気味で事件を伝えていた。熊川はいつもの疑うような表情をなぜか茜に向けていたが、特に何も言わずに短い首を小さく傾げただけだった。


 妃倭子の介護を終えると昨日と同じく屋敷の清掃となる。茜は箒とちり取りを渡されて一人で庭掃除を任された。屋敷を出ると熱く湿った風が髪を強くなびかせる。台風でも近づいているのか、空気は生臭く、森からはどよめくような低音が響いていた。


 屋敷の庭は広大だが殺風景で、数本の針葉樹の他には何も植わっておらず、荒れ果ててはいないがきちんと整備もされていなかった。地面は黒っぽい山の土が広がり、普段利用する正面の門までの道以外は緑の雑草が不規則に島を作って点在している。煉瓦れんがに囲まれた花壇や、ヨーロッパ風の丸い皿を積み上げたような白い噴水もあるが、水はもうたたえておらず、全体的に古びて色もくすんでいた。


 こんな環境で掃除と言ってもほとんどすることはなく、せいぜい吹き溜まりに集まった森の小枝を敷地の外に捨てるくらいしかない。初日に引田が花畑を作りたいと訴えていた気持ちも分かる。妃倭子にその意識があるかどうかは分からないが、このままでは幽霊屋敷だ。麓の町で会ったスーパーマーケットの店員も、自分がこの山から来たと言ったら顔色が変わった気がする。地元では何か良くない噂も立っているのかもしれない。


 ぽつりと頬に水滴が当たる。気のせいかと思っている間にもその数は増えて、暗い空から雨が降り始めたと分かった。これでは掃除どころではない。いや、本当は掃除をしている場合でもなかったが、新人の勝手な行動に遠慮していただけだった。茜は言い訳ができたことを幸いに屋敷へ戻って掃除用具をしまった。


 一旦私室に戻って目的の物をたずさえてから、屋敷の大階段へ向かう。途中、エントランスの隅にある棚に設置された固定電話がふと目に留まった。電話機の背面の壁には小さな貼り紙があり、【お屋敷TEL《この電話》】や【ひだまり《代表》】という記述の下に電話番号が羅列されている。さらに麓の町の警察署や消防署、病院や水道局や電力会社の電話番号が続いていた。昨日の包丁男の事件以降、会社からも警察からも音沙汰おとさたはない。捕まえたという連絡すらないのが不安だった。


 大階段から二階へと上がると、左手にある一つ目のドアをノックする。たとえ耳が聞こえなくても気配のようなものは感じられるかもしれない。名前を呼びかけたが返事はなく、静かにドアを開けて部屋に入った。


 子供部屋はしんと静まり返り、広都の姿はどこにも見当たらなかった。奥へ行くと部屋の中央には小さなテーブルがあり、その近くには図鑑や玩具や小さな段ボール箱が置かれていた。広都はどこへ行ったの? 雨の降り出した庭では見かけなかったので、また書庫で一人遊びをしているの?


 その時、近くのベッドで布団がもぞもぞと動く。妃倭子の掛け布団を剥いだ時の光景を思い出しつつ、そっとすそを捲ると広都が体を丸めてこちらを見上げていた。

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