第35話

 茜は包帯を巻いた右腕に少し目を移して答える。本来ならすぐにでも病院へ向かう事態かもしれないが、麓の町まではあまりに長距離な上、診察を受けたところで今と変わらない処置になると知っているので、迷っている内に結局行きそびれてしまった。今朝も少し痛みはあるが、患部はすでに出血も止まり大事には至っていない。恐らくこのまま完治するだろう。


「私、何だかんだでよく怪我けが火傷やけどをしていますから、この程度なら慣れています。ご心配いりません」


「そうなの? 茜ちゃんって強いんだねっとと……」


 引田は話しながらカーペットに足を軽く取られる。見ると左足を少し引きずっていることに気づいた。


「引田さん、足、どうかされたんですか?」


「え? ああ……昨日、ちょっと傷めちゃったみたいだねぇ」


「昨日って、まさか襲われて転んだ時ですか? 大変じゃないですか」


「ううん、平気平気。茜ちゃんじゃないけど、私もよく転んだりひねったりするからね。慣れっこだよ。気にしないで」


 引田は笑って答える。確かに遠目から見る限りではそれほど重傷でもなく、多少かばっている程度のようだ。今まで気づかなかったのもそのためだろう。


「……平気ならいいですけど。でもあまり無理しないでください。お仕事なら私が代わりにやりますから」


「ありがとう、茜ちゃん。本当は私のほうがサポートしなきゃいけないのに」


「そんなことありません。引田さんこそ安静にしてください」


「じゃあ、今日はお互い支え合って生きていこうね。夫婦みたいに!」


 引田が目を輝かせて言ったので茜は思わず吹き出した。彼女のいつも前向きで楽観的な性格と発言はこの屋敷の癒しだ。恐らく足の怪我もこちらから尋ねなければ黙っているつもりだったのだろう。どう考えても自分より彼女のほうが強い。だからこそ後輩なりに気遣ってやらねばと思った。


 マスクとゴム手袋を装着して、燭台のロウソクに火を灯して妃倭子の寝室に入る。すると突然、一匹の黒い羽虫が茜の額に衝突した。


「わっ」


「どうしたの? 茜ちゃん」


「大丈夫です。いきなりハエがぶつかってきて……」


 慌てて手で払うと羽虫はすぐどこかに紛れて見えなくなった。ハエにしては大きかった気もするが、よく分からない。リビングの明るさに興奮して向かって来たようだ。気を取り直してカートを停めると引田と分かれて寝室の燭台に火を灯して回る。毎回同じ、妃倭子と対面するための儀式だった。


「今日は特に蒸し暑いからね。ハエさんも元気なんだろうねぇ」


 引田は暗闇の中でのんびりと話す。どれだけ閉めきっていても妃倭子の寝室にはハエが出る。リビングからドアを開け閉めする時や、浴室の窓や換気扇の隙間から侵入するのだろう。そしてハエも目的がなければ集まってはこない。虫の目的など茜には二つしか思いつかない。食事と繁殖はんしょく。マスク越しに届く臭気も今日は特に強いように感じられた。


 全ての燭台に火を灯すとカートを押して天蓋の付いたベッドに向かう。カーテンの周囲に付けたハエ取り紙も真っ黒になっていた。一日一回、夕食のあとに取り替えているが、今日は朝からすでにたくさん貼り付いている。乏しい光の中でぼんやりと揺れながら、ブブッ、ジジッと不快な羽音が聞こえていた。


「妃倭子さん、おはようございます。朝食をお持ちしました」


 引田にかわって茜が声をかけてカーテンを開ける。二匹の羽虫が顔の両側から通り抜けていった。どうも今日はやけに虫が目に付く。しかしベッドに仰向けになっている妃倭子の姿に変わりはない。赤い薄手のローブを身にまとい、夏用の薄い掛け布団に覆われて、黒い袋を頭から被っていた。


「妃倭子さんは、その……お変わりはありませんか?」


 言葉に詰まりながら尋ねるが、妃倭子はやはり全く反応を見せない。昨夜に見たことは引田にも話していない。あの包丁男の事件を怖がっていた彼女をこれ以上不安にさせたくなかったからだが、一夜明けると自分でもあれが本当のことだったのかと自信が持てなくなっていた。もしかすると目の錯覚か、また夢を見ていたのかもしれない。茜は枕元の燭台に火を灯すと、カートを寄せて食事の準備に取りかかる。


「あれぇ? 妃倭子さん。いつの間に掛け布団を被ったんですか?」


 隣から引田が驚いた声を上げる。


「珍しいですねぇ。お部屋が寒かったんですか?」


「掛け布団が……」


 カートの上で生肉を混ぜていた茜も妃倭子を見返す。そうだ、彼女はいつも上から何も掛けられずにそのままベッドに寝かされていた。


「それとも、もしかして何か怖いことでもあったんですか? 分かりますよ。布団を被るだけでちょっと安心できますもんね。私なんて昨日は頭まで被って蓑虫みのむしになっちゃった」


「……引田さん。昨日は妃倭子さん、布団を掛けられていなかったんですか?」


「あ、茜ちゃんが掛けてあげたの?」


「違います。私は腕を怪我してから熊川さんに介護を代わってもらっていたので知りません」


「ああ、そうだったね。うん、掛けていないよ。今は夏だし、そういう習慣もないからね」


「では、誰が……」


「妃倭子さんがご自分で掛けたんじゃない? それとも光江ちゃんかな? 掛け布団自体はベッドの下に畳んで置いてあったからね」


 再び、何か大きな羽虫が頬に衝突して茜は顔をしかめる。どういうこと? あの熊川が妃倭子を気遣って布団を掛けたとも思えない。ということは、引田が言う通り妃倭子が自分でそうしたのか? 昨夜、この黒袋を外して屋敷内を徘徊はいかいしたあと、再び顔を隠してベッドに入って、布団を被った? 一人で? 本当に?


「どうしたの? 茜ちゃん。準備はできた?」


「あ、はい……大丈夫です」


 茜は生肉のスープが入ったボウルを置いて返事をする。今は些細ささいな出来事にこだわっている場合ではない。仕事に集中しなければならない。食事のために妃倭子を抱え上げようとする引田を制して前に出る。


「私がやります。妃倭子さん、失礼しますね」


 そしてつまらない疑念を払拭ふっしょくするかのように、妃倭子の掛け布団をやや荒っぽく剥ぎ取った。


 その時、妃倭子の体から一斉に羽虫が飛び出した。


「うわぁ!」


 茜は声を上げて掛け布団から手を離す。先ほどから顔に当たってきた、ハエよりも大きな虫が五匹、十匹と辺りを飛び交う。隣で引田も小さな悲鳴を上げた。

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