第34話

 ギャア、ギャアという悲鳴が遠くから聞こえて肩をすくめる。慌てて辺りを見回すが、書架にさえぎられた視界に変化は見られなかった。熊川はこの悲鳴を鳥の鳴き声と決めつけていたが、とてもそうは思えない。しかし昨日に続いて今日も聞こえたということは、やはり単なる鳥の鳴き声なのだろう。


 急に心細さを覚えて茜は腰を上げる。小説と童話と、分かりやすそうな手話の本を選んで借りることにした。書架のどの場所から抜き出したのかもメモに控えておいた。そのまま書庫の出口へ行って、壁にある照明のスイッチを切って、両開き扉の片方だけを小さく開けて廊下へ出る。音を立てないよう静かに扉を閉めてから顔を上げて振り向いた。


 廊下の先で、何か黒い影が動いた。


 すっと息をんで体が硬直する。大階段よりさらに向こうの廊下で、何か大きな物体がうごめいていた。窓から入るかすかな月明かりだけではその正体が掴めない。しかしそれは相手側からも同じことらしく、黒い影は茜の存在に気づいていないようだった。


 茜はじっとその場に立ち止まったまま、呼吸音すら憚られるように静止する。開ききった目を凝らしても、それを判別するには距離がありすぎた。獣か、人か、それとも別の何か。獣なら背の高い二足歩行のできる動物となり、この山にいるとすればクマか大型のサルを想像してしまう。そして人ならば、例の包丁男が引き返して来たとしか思えない。どちらにしてもこちらの存在を知られるのは危険だった。


 どうしよう。黒い影は非常に緩慢な動きで、あるいは茜と同じように息を潜めて、こちらに向かって廊下を歩いてくる。このままでは追い詰められて逃げられなくなる。先に飛び掛かり、相手が驚いている隙に脱出する? そんな映画のような真似ができるの? いや、途中には広都の部屋がある。自分だけが逃げるわけにはいかない。彼を助けに向かうと、間違いなく見つかってしまうだろう。


 しかし、黒い影は大階段の辺りで闇に溶けるように見えなくなった。消えた? 違う、大階段を降りたのだ。茜は静かに溜息をつく。助かった。しかし危機はまだ去っていない。持ち出した本を胸に抱き、爪先歩きで廊下を歩く。広都の部屋を通り過ぎてから、そっと首を伸ばして大階段のほうへと目を向けた。


 背を向けた人型の影が、一歩ずつ階段を降りていた。


 ぞっと寒気が走って茜は再び呼吸を止める。思ったよりも近くにいたので緊張感が一気に高まった。影はこちらに気づくことなく、地中に沈み込むようにじわじわと遠ざかっていく。獣ではない。包丁男ではない。乱れた長い髪をそのままにして、体を大きく揺らしながら階段を降りる。まるでゾンビのような女に見えた。


(……妃倭子さん?)


 茜はきつく閉じた唇の中でつぶやく。思い浮かんだ答えに自分自身が驚いていた。決して取ってはいけない頭の黒袋を外して、妃倭子が夜の屋敷を徘徊はいかいしている。ありえない。しかしそれ以外に考えられない。引田も、妃倭子は動き回ることもあると言っていた。夜のほうが元気になるとも付け加えていた。重い荷物を背負っているかのように、一歩一歩慎重に階段を降りる女の動きも、寝たきりで筋力の衰えた者のように思えた。


 しかし、もし妃倭子だったとしら、彼女はこんな夜更けに一体何をしているの? 暗闇の中で散歩をしているの? まさか本物のゾンビのように無意識で動き回っているの? それとも広都の寝顔を見に来たの? だが彼女は廊下の向こうからやって来て、広都の部屋へ行く前に階段を降りたように見えた。彼女が来た方向にあるのは、応接室、空き部屋、空き部屋、遊戯室、そして、鍵の掛かった部屋……。


 女が階下に消えてしばらく経ってから、茜は静かに階段を降り始める。暗闇の中、不確かな視覚の代わりに、全身が耳になったかのように聴覚が鋭くなっていた。真夏の夜のざわめきが広い屋敷にこだましている。だがそこから意味のある物音は聞き取れなかった。


 一階に到着したが女の姿はどこにもない。リビングのほうにもエントランスのほうにも誰もおらず何も変化はなかった。茜はしばらくその場に佇んでいたが、やがて操り人形のようにぎくしゃくとした動きで私室へ戻る。ドアを閉めてベッドに腰かけると、深く、やはり静かに溜息をついた。


 ブウゥーンというノイズ音が耳に届いて頭に響く。耳鳴りではない。人の出入りを感知してエアコンが作動しただけだ。茜は鍵の掛けられないドアをじっと見つめる。いつの間にか、そっと開いて何かが忍び込んでくるような気がして目が離せなかった。


 妃倭子は寝室へ戻ったの? それとも単なる目の錯覚だったの? そもそもあれは本当に妃倭子だったの? 妃倭子でなければ、誰なの? 疑問は尽きないが、それを確かめる気力はもうない。今はただこの夜が早く明けることだけを望んでいた。


 分からない。でも、この屋敷には何かある。


二十四


 翌朝は灰色の分厚い雲が空を覆う曇天どんてんだった。まるで屋敷の上にもう一枚屋根が付いたかのように、雲が森の木々を支えに空を蓋していた。空気は蒸し暑く湿り、土の濃い匂いが籠もっている。昨日とは世界が違って感じられるのは天気だけのせいだろうかと茜は思っていた。


 今日は茜と引田が妃倭子の食事当番となり、熊川がヘルパーたちと広都の食事を担当することになっていた。もう何度も行っているので妃倭子の食事介助に戸惑うこともなくなったが、この環境と仕事に馴染めたという気はしていない。あくまで手順を覚えたというだけで、疑念や違和感は胸の内でより一層強くくすぶっていた。


「昨日はごめんね、茜ちゃん」


 妃倭子の寝室へ向かう途中、配膳用のカートを押す茜の隣で引田が話しかける。困り顔に笑顔をたたえた、甘えるような表情だった。


「買い物のあとで起きたこと。まさかこのお屋敷に知らない人がいて、襲われるなんて思ってもいなくて、私、先輩なのに何もできなくて、ごめんね」


「そんな、謝ることではないです。あんな目に遭ったら取り乱すのも当たり前です。先輩とか後輩とかも関係ありません。皆さんが無事だっただけでも本当に良かったです」


「無事? でも茜ちゃんは腕を切られたじゃない」


「そうですけど……まあ大した傷でもなかったので平気です」

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