第33話

 夕食後は昨日と同じようにミーティングと日報作成を済ませて仕事を終えた。ミーティングは形式的なもので、今日の仕事内容と、明日予定している仕事の内容を確認するだけだった。引田によると、例の包丁男については会社から警察に通報して対応することになった。社長の母親である高砂からは、屋敷の戸締まりを怠らないことと、事件を外部に漏らさないことを厳命されたそうだ。やはりこの屋敷で宮園妃倭子の介護を行っていることは世間に知らせたくないらしい。住み込みで勤務する介護ヘルパーの自分たちに異論はなかった。


 屋敷の灯りが消えて数時間後、茜はふと思い立って私室を出ると、エントランスを抜けて大階段から二階へ上がった。あれだけ捜し回ったのでもう不審者が潜んでいる可能性はない。向かう先は二階左手の奥にある書庫。掃除中に膨大な書籍群を目にしてから、もっとよく見たいと思っていた。


 スマートフォンも使えずテレビもないので、夜になるとやることがなくなってしまう。それで暇潰しに読書でもできればと考えた。使用人が主人の所有物を勝手に持ち出すのは良くない? いや、住み込みで働いているのだからこれくらいは許されるだろう。熊川からは夜中に出回らないように言われていたが、やましいことをしていないのだから従う必要はない。彼女への当て付けの気持ちもないとは言えなかった。


 部屋の照明を付けると、無数の書架が一斉に整列する。光と影のコントラストがくっきりと映えて独特の重厚さと神秘性が感じられた。茜は書架の端から横歩きに足を進めながら背表紙を眺める。今日の午前に見た時と同じく、分厚い大型の書籍が多く目に付く。本を読みたいと思ったが、難解な上に古そうな学術書を紐解ひもとく気にはなれず、背表紙の単語すら分からない洋書などは問題外だ。辛うじて文豪の全集あたりなら楽しめそうだが、今はもう少し娯楽に寄った作品を求めていた。


 それにしても、収蔵されている書籍の点数も膨大だが、ジャンルの幅広さにも驚かされる。最初に訪れた際に図書館のように見えたのは、書架の立ち並ぶ光景だけではなかったのだろう。そしてこの書籍群が一人の手によるものではないと感じた理由もそこにある。本が好きな人間は世の中に多いが、ここまでかたよりなく蒐集しゅうしゅうする者などいるだろうか。まるで人類のあらゆる知識、人間そのものが解体されて、紙の薄さに切り刻まれて、保管されているようにも思えた。



 そこまでして知りたかったことって何?


 どこまでも続く本の森は、やがて木立こだちの密度が減って光が射し込むかのように、次第と明るく賑やかなジャンルへと変わっていく。【よく分かる!】と煽り文の付いた入門書や、比較的近代の小説が目立つようになり、最後には写真の入った大判の図鑑や童話、数十冊の絵本まで並べられてた。そこまで辿り着いてから背後を振り返ると、窓際の空間に本やスケッチブックやクレヨンが落ちているのが見える。広都が一人で遊んでいた場所だった。


 今日の午前中、スケッチブックの絵を見たあとにいくらか片付けておいたはずだが、それからまた遊んでいたらしい。茜は床に腰を下ろすと、図鑑から切り抜いたと思われる恐竜や昆虫の写真を糊付けしたスケッチブックの表紙を開いた。いくつかの落書きページのあとに描かれた四人の女。身の回りにいる三人の介護ヘルパーと、×印の付けられた歪な怪物のような女が目に入った。


 鬼子母神は千人の子供を生み、人間の子供を食べて養い、一人の我が子の消失に嘆き、改心して母子の守り神になったという。引田から聞いた伝説は終始、鬼母の立場のみ語られてた。それでは、鬼の子供たちは母親をどのような目で見ていたのだろうか。広都のように母親を恐れ、憎んでいたの? それとも鬼の子供ゆえに母親の食人も当然と見ていたの?


 その時、茜は広都の絵を見つめながら、ふと疑問を抱いた。彼はどうして母親をこんな姿で描いたのか? 初めは難病によって変わりゆく姿を目の当たりにしてショックを抱いたものと思い込んでいた。しかしどれだけ醜くなっても、彼にとって母親は母親だ。六歳児が見た目の美醜で母親を否定するだろうか? もしかすると嫌悪を抱くのには別の理由があったのではないかと思えてきた。


 スケッチブックに描かれた絵には微妙な凹凸が付いている。以前に見た時は最後のページだったが、その後に広都は裏にもう一つ新しく絵を追加したようだ。子供の強い筆圧で描いたので厚紙でも窪みが付いたらしい。捲ってみるとそこには絵ではなく文字が書かれていた。形も大きさも整っていないが、辛うじて『く』『リ』『ヤ』『あ』『カ』『ね』と読めた。


「あ……」


 茜は思わず声を漏らす。『や』や『か』は線が足りず片仮名になり、『ね』に至っては『わ』と『る』を混ぜた蛇のような字になっている。しかし書かれているのは間違いなく栗谷茜の名前だった。その六文字がページを埋め尽くすように何度も繰り返されていた。


 不思議な感動が胸の内に広がった。広都が自分の名前を書いてくれている。恐らく新しく知った名前を書いてみただけだろうが、その拙い筆跡から必死に覚えようとしてくれているような感覚を受けた。広都は物静かで大人に無関心な子供ではない。本当は素直で賢く、心優しい子なのかもしれない。その純粋さが聾唖ろうあの障害と屋敷の閉鎖的な環境によって押さえ込まれているのではないかと想像した。


 茜はスケッチブックをそっと閉じて床に置き直すと、立ち上がって再び本の森へと入り込む。確か先ほど、少し気になるタイトルがあったのを思い出していた。今度は逆方向に辿りながら、時々は関係のない小説や童話の本を抜き出して中身を確かめつつ、目当てのジャンルを探し回る。やがて実用書と呼ばれる一群の中、書架の最下段に、手話についての本を何冊か見つけ直した。


 膝を曲げてしゃがみ込み、試しに書架から三冊取り出して流し読みする。耳の聞こえない広都に対して、筆談とは別に手話を使ってコミュニケーションを取れないだろうかと思いついた。とはいえ茜も手話といえば、中学生の頃に道徳の授業でほんの少し習った程度の知識しかない。しかしせっかく一緒に住んでいるのだから、これを機に勉強するのもいいだろう。広都はスケッチブックの紙一杯に名前を書いて覚えようとしてくれていた。こちらもその気持ちに応える必要があった。

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