第32話

旦那だんな様……妃倭子さんの夫の書斎がある、と聞いている」


「妃倭子さんの夫?」


「私も中を見たことないし、会社からもここは立ち入らないように言われている。だから私たちには何の関係もない」


 熊川はそう言って顔を背ける。意外な回答、だが充分に有り得ることだった。息子の広都がいるのだから彼の父親、妃倭子の夫もどこかにいるのは当然だ。それなら屋敷内に書斎があっても不思議ではなく、訪問介護のヘルパーに任せきりの現状では部屋に鍵を掛けておくのもありえるだろう。


「そのかたは……旦那様は今どこにおられるんですか?」


「知らない。会ったことない」


 熊川は素っ気なく返答して廊下を戻り始める。本当に知らないのか、隠しているのかは分からない。だが普通の夫ならこの状況を放っておくわけがない。屋敷に帰れない事情があるのか? それとも普通の夫ではないのか? 開けることのできないドアからは、詮索せんさくを拒む意思が感じられた。


「栗谷さん」


 熊川はふと立ち止まると、首だけで振り返って横目でこちらを見た。


「あなた、どうして広都君を助けに行ったの?」


「え?」


 茜も足を止めて聞き返す。熊川の言っている意味が理解できなかった。


「さっき、あなたが男に襲われたって話していた時、いきなり一人で二階へ行って広都君を助けようとした。どうしてそんなことしたの?」


「どうしてって……もし男がまだお屋敷にいたら広都君が危ないと思って」


「でも私言ったよね? 包丁を持った男をどうやって捕まえるんだって。今も二人で箒とデッキブラシを持って捜し回っているけど、栗谷さんはずっと怖がっている」


「こ、怖いに決まっています」


「それなのにさっきは一人で、腕も怪我をしているのに駆け出した。もし男がいたらどうするつもりだったの?」


「腕の怪我は……その時はまだ気づいていませんでした。危ないのは分かっていますけど、でも……広都君が一人でいるなら放っておけないじゃないですか」


 茜は戸惑いながら返答する。熊川は眉をひそめて、また例の疑うような目線を向けていた。


「何で?」


「何で? え?」


「広都君を放っておいて何が困るの?」


「ほ、本気で言っているんですか? あの子はまだ六歳なんですよ?」


「それがどうしたの? 介護ヘルパーの仕事にそんなことまで含まれていないでしょ?」


「仕事は関係ありません。子供が危ないんだから助けに行っただけです」


「だから、どうして栗谷さんがそんなことをするの?」


「いや、だって他に人もいないし、お母さんの妃倭子さんも動けないじゃないですか」


「それで自分が殺されるかもしれないのに、他人の子を助けに行ったの?」


「他人の子じゃないです。妃倭子さんの息子さんです」


「栗谷さんは、あの子の母親代わりなの?」


「そんなことは思っていません!」


 茜は声を上げて否定する。禅問答ぜんもんどうのような質問攻めに苛立ちを覚えた。


「熊川さんは何をおっしゃりたいんですか? 私が広都君を助けたのがそんなに気に入らないんですか?」


「それは関係ない。私はあなたが、危険をかえりみず一人で助けに行った理由を知りたい」


「理由なんて……気がつけば勝手に体が動いていたんですから」


「勝手に? そんなことある?」


「知りませんよ。一人で行ったのは、引田さんはまだ腰を抜かしていたし、熊川さんに説明するには時間がもったいなかったからです。でもその時はそこまで考えていませんでした。無意識にそう判断したんです」


「無意識……」


「無意識で動いたのがそんなにおかしいですか? 職務規定に反していましたか? それでも私は助けに行きましたよ。危ないからどうだって言うんですか? 他人の子だからどうだって言うんですか? そんなの関係ないじゃないですか!」


 茜は熊川に掴みかからん勢いで訴える。なぜ当たり前の行動に理由を問い詰められなければならないのか。仕事の上なら理不尽な叱責も受け入れるが、あの状況で子供を放っておけという意見に従うことなどとてもできない。何も動かなかった彼女に非難される筋合いはなかった。


「私、熊川さんみたいに冷静で賢くないですから、小さい子を見捨ててまで自分の身を守ることなんて絶対にできません」


 熊川は茜の剣幕けんまくに少し驚いた顔を見せたものの、それ以上は何も言い返さずに背を向けた。


「分からない……」


 そして一言だけをつぶやいて再び廊下を歩き始めた。ああ、そうでしょう。あなたには分からないでしょうね。という言葉を飲み込んで茜もあとに続いた。熊川は意地悪な性格でなければ、他人をいじめて楽しむ趣味もない。ただ人として根本的に何かが欠けていると理解した。


二十三


 屋敷内に男はいないと分かったあと、引田と熊川は妃倭子の夕食を介助するために彼女の寝室へと向かった。当初は茜と熊川が担当する予定だったが、右腕を怪我したので引田と交代することになった。大した怪我でないが不自由だろうと言われると否定できない。また傷口から発生した黄色ブドウ球菌で妃倭子の身に感染症や食中毒を引き起こす危険性もある。少なくとも今日は近づかないほうがいいという判断だった。


 それで茜は代わりに自分たちの夕食を担当することになった。もちろん健常者にも気をつける必要はあるが、傷は手指から遠い場所にあるのでゴム手袋を着ければ問題なかった。メニューはご飯とサバの塩焼き、豚肉と夏野菜の炒め物に冷や奴、それに味噌汁を付けた。見映えが良くて手間のかからない料理を選んだ。当然サバも切り身を焼くだけだった。


 夕食の場は昨日よりも静かで、ぎこちない雰囲気が漂っていた。リーダーでムードメーカーの引田がまだ調子を取り戻しておらず、茜の料理を美味しいと褒めたものの、そのまま話が途切れてあとに続かなかった。熊川は相変わらず無口で無愛想で、不機嫌そうに箸を動かすだけで話にならない。そして茜にもこの寒々しい空気を変えるほどの社交性は備えていなかった。


 広都も小さな頭をうつむかせたまま、黙々と食事に集中している。ただそれは彼にとって普段と変わらない態度でもあった。物音や会話を聞き取れないので、体に触れられるか目の前でテーブルを叩かれるまでは周囲に無関心なままでいるようだ。将来的には不安だが、今この場ではそのほうがいいだろう。茜は広都の、こちらを気にすることなく熱心に咀嚼そしゃくする表情を眺めて胸を撫で下ろす。彼が満足でいるならそれで充分だった。

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