第31話

 リビングでマスクとゴム手袋を装着して、燭台に火を灯して妃倭子の寝室へ入る。部屋は変わらず暗黒の空間で、ロウソクの明かりだけでは隅々まで見通すことができない。身を隠すには最適の場所だと思うと、警戒心は否応なしに高まった。しかし箒と燭台を両手に持ち、目を凝らして丹念に捜索しても男はどこにもいない。分厚いカーテンにさえぎられた窓にもしっかり鍵が掛かっていた。


 熊川は寝室に隣接した妃倭子専用の浴室と洗面所へ向かう。茜は天蓋の付いたベッドへと向かい、黒い布袋を被って仰向けになった妃倭子と対面した。念のために布団の中やベッドの下も覗いたが、やはり男は隠れていない。まるで時間が止まっているかのように、妃倭子にも一切変化はなかった。


「妃倭子さん、ここに誰か来ませんでしたか? お屋敷の中に不審な男がいたんです」


 茜は妃倭子に向かって話しかける。たとえ動けなくても耳は聞こえているかもしれない。屋敷で起きた異変は主人に伝えておくべきだと思った。


「それで私たちは今その男を捜しているんです。被害は……特に何もありません。引田さんが警察にも通報してくれました」


 マスク越しの囁き声が、黒袋を被った頭部に吸収されていく。それとともに湿気を帯びた腐臭が鋭く鼻を突いた。静止していた空気が動いただけだが、茜にはそれが彼女からの冷淡な返答に思えた。


「妃倭子さん……心配ではないんですか? 広都君のことも……」


 思わず責めるような言葉で問いかける。介護ヘルパーとしては使うべきではない暴言だが、訳の分からない男に襲われて腕を切りつけられては仕事上のルールなど気にしている場合ではなかった。いや、それでも自分だけなら不運な災難として収めることもできる。茜の怒りは、息子の危機にも無反応な母親の態度への苛立いらだちだった。


 その時、ふと別の方向から視線を感じた。振り向くと、洗面所から戻って来た熊川が遠くからこちらをじっと見つめていた。


「どうかした? 栗谷さん」


「いえ……その、妃倭子さんにもこの事態を話しておこうと思って」


「どうして? 別に返事なんてしないでしょ」


「そう、ですね。そちらはどうでしたか?」


「別に何も。誰もいないし、何も変わったことはなかった」


 熊川は怪訝そうな顔で答える。癖なのか、彼女はよくこんな表情を見せている気がする。何が不満? 何を疑っているの? それが分からないから不気味に見えて、不安を抱かせられて、正直に言うと気に入らなかった。


 彼女は素知そしらぬ顔で目の前を通り過ぎると、寝室にはもう用はないとばかりに無言でリビングから出て行く。茜は妃倭子に向かってお辞儀をすると、天蓋のカーテンを閉めて彼女のあとを追った。次は二階を見て回るのだろう。寸胴鍋ずんどうなべのように膨らんだ背中が左右に揺れていた。


 茜はふと、先ほど見た熊川の表情が、昨夜に見た彼女のものと同じだったことに気づいた。悪夢を見たあとに悲鳴を聞いて、暗い屋敷を彷徨さまよっている時に遭遇した彼女の顔。こちらの話を信用せずに、泥棒の疑いまで掛けてきた際に見せた表情によく似ていた。


 もしかして熊川は男の存在を疑っているのだろうか? 実際に姿を見ていなければ、こんな山奥に他人が現れることなど信じられないのかもしれない。しかも屋敷で留守番をしていたにも関わらず男の侵入に気づいてもいなかった。そんな彼女にしてみれば、茜が屋敷に帰って来るなり意味不明の騒ぎを起こしているとしか思えないのではないか。つまり、昨夜の状況と全く同じように見えているのだろう。


 茜は熊川の心境が理解できて、胸の内で溜息をつく。存在しない男の捜索に付き合わされていると思っているなら訝しげな顔にもなるだろう。彼女を信用させるには、実際に男を見つけるしかない。しかし屋敷内に潜んでいるなど考えたくもない。右腕の傷がずきりと痛んだ。


 二階へ上がって部屋を一つ一つ見て回る。茜は熊川の前へ出ると、まるで自分のほうが不審者のように足を忍ばせて、ゆっくりと音を殺してドアを開けて中を窺った。信じてもらえないのは仕方がないとしても、そのせいで彼女を危険な目に遭わせてはいけない。先ほど入った広都の部屋にも、空き部屋にも、暗がりの多い書庫にも男は隠れていなかった。


 男はやはり屋敷の外へと出て行ったのだろうか? 血と泥にまみれ、包丁を手にした裸のままで。茜は深い森の中を走り抜ける獣のような姿を思い浮かべてぞっとする。一体何者だったのか? 麓の町から車で二時間もかかるこの山奥に変質者がやって来るとは思えない。暴力的な挙動から精神疾患の症状も疑えるが、近くにそんな人間が住む民家や病院があるとも聞いていなかった。


 何より裸で傷だらけの上、冷蔵庫を漁っていたのが不可解だ。山賊に襲われて身ぐるみを剥がされたとでもいうのか? あるいは山で遭難して餓死寸前に陥っていたのか?


 遭難といえば、スーパーマーケットの店員から聞いた話を思い出す。一週間前にカップルが山に入ったまま行方不明らしい。ということは、もしや男はそのカップルの片方だったのか? しかしそれなら全裸でいた理由が分からない。それに遭難したなら逃げずに助けを求めたはずだ。いや、そもそも遭難した山もこの岸尾山ではなく、麓の町を挟んだ反対側の山だと聞いていた。それでは別の人物か? 他に遭難者がいたのか?


「二階にもいないみたい」


 廊下の端まで見回り終えて熊川が言う。茜は遊戯室のドアを閉めると顔を上げて突き当たりまで目を移した。そこにはもう一つ、鍵の掛かった例の部屋が残されている。臙脂色のカーペットに血が黒く染みついていた。


「この屋敷には他に探す場所はないから、男はもう屋敷から出て行ったんでしょ。栗谷さん、これで満足?」


「はい……そちらのお部屋は?」


「ここは鍵がかかっているから誰も入れない。今朝掃除してる時に気づかなかった?」


「知っています。でも、ここって何のお部屋ですか?」


「それが関係ある?」


「……何も関係ありませんが、気になったから聞いただけです。熊川さんはご存じなんですね? 教えてください」


 茜はつとめて冷静な態度で尋ねる。熊川のいちいち突っかかるような返答にいい加減うんざりしていた。彼女は細い目でしばらくこちらを見返したあと、ふんっと鼻から息を吹いて口を開いた。

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