第30話

「良かった、大丈夫? ここに変な男は来なかった?」


 そのまま勢いよく抱き留めると、広都はぎゃあと濁った悲鳴を上げた。そして弾かれたように手足を伸ばして茜の体を押し返すと一目散に部屋から出て行った。


「あ、待って!」


 茜も慌ててあとを追いかける。いきなり抱きつかれて驚かせてしまったらしい。しかしその様子を見る限り、あの男は広都のところへは来なかったようだ。男児は小さな体で転がるように廊下から大階段を降りて行った。


「……広都君。どうしたの? 栗谷さんは?」


 階下から熊川の声が聞こえる。彼女に任せておけば広都も勝手に出歩くことはないだろう。実際に男の姿を目にしていないこともあって、彼女は普段通りの落ち着きを見せている。あの冷たい態度も今は頼りになった。


 しかし安心して顔を上げた瞬間、何か、奇妙な違和感を覚えた。


 目の前には長く伸びる二階の廊下が見えている。広都を追いかけて来たので先ほどとは逆方向、右手の廊下だった。何が気になったのだろう。やはり誰もおらず、今朝には茜自身が掃除機をかけたので塵一つ落ちていないはずだった。


 茜は見えない何かにいざなわれるかのように、そろりそろりと足を運んで廊下を進む。右側に四つ並んだドアはそれぞれ応接室、空き部屋、もう一つ空き部屋、遊戯室と勝手に名づけて認識している。部屋の中からは物音一つ聞こえないが、あの男が息を潜めて隠れているかもしれない。警戒心を緩めずに四つのドアを通り過ぎると、突き当たりにある鍵の掛かった部屋まで辿り着いた。


 五つ目の部屋の前で立ち止まって、閉まったままのドアをじっと見据える。今朝に見た時と何か変わった気がするが、何が変わったのかよく分からない。窓から射し込む日光の位置が移動したのでそう見えただけだろうか。そう思っても不安はなくならない。まるでドアをさかいにして同じように誰かがこちらを向いて佇んでいるように思えた。


 腰の引けた体勢のまま、音を立てないようにそっとドアノブを握る。そのままゆっくりと右に回したが、わずかに動いただけですぐに中でせき止められた。左にも回らず、もう一度右に回しても動かない。今朝に確認した時と変わらずドアは鍵が掛かったままだった。


 ただ、ドアノブの下、臙脂色えんじいろのカーペットの床に、黒く大きな染みが落ちていた。


 何だ? 茜は腰を屈めて目を落とす。黒い染みは大きな物が一つと、その周囲に点々と何箇所か付いている。これが最初に抱いた違和感の正体だろうか。掃除機を走らせていた時には間違いなくなかった。一体ここで、誰が、何をしてこんな染みを作ったのか。


 不吉な想像が頭の中を巡り、ふいに気になって背後を振り返る。人気ない廊下が延々と続いている。顔を戻して再び黒い染みを見つめる。暗い紅色のカーペットなので見分けが付かないが、元はこの染みも赤色だったのではないか。そう思い始めると、鼻の奥に錆びた鉄の匂いすら感じられてくる。染みの前には鍵の掛かったドアがある。この、開かずの間には何が……


 ぽとりと、カーペットに新たな染みが落ちた。


 茜は思わず体を震わせる。それとともに、さらに二箇所に染みが生まれた。見ると右手の袖口が赤く染まり、手の平が血まみれになっている。慌てて袖をまくると前腕に浅く切り傷が付いて出血していた。


 どうやらキッチンで男に襲われた際、わずかに包丁で切られていたらしい。興奮のあまり全く気がついていなかった。ひとまず巻いた袖で患部を押さえて止血しつつその場を離れる。これ以上カーペットを血で汚すわけにはいかなかった。


 今さら傷口から鋭い痛みを感じて顔をしかめる。心配するほどではないが、消毒して包帯を巻いたほうが良さそうだ。一階にいる引田か熊川に頼めば処置してくれるだろう。大階段を降りる直前で、もう一度開かずの間のほうに目を向ける。するとまた新たな疑問が頭を過ぎった。


 あの黒い染みは、本当に自分の血だけが付けたものだったの?


二十二


 右腕の怪我は前腕の内側、肘の下から手首に向かって五センチほど切られていた。深手ではなかったが、もう少しずれていれば太い動脈を傷つけて大量出血を起こしていたかもしれない。そう思うと背筋に冷たいものが走った。一階のダイニングには引田と熊川と広都が揃っており、茜が怪我を伝えると引田は再びパニックを起こして悲鳴を上げた。しかしさすがに介護ヘルパーだけあって、戸棚から救急箱を取り出して丁寧に処置してくれた。血はすでに止まっていたので、患部を消毒してガーゼをあてて包帯を強めに巻いてもらった。


 茜が急に抱き締めたせいで逃げ出した広都も今は落ち着いており、熊川の筆談からおおよその状況は理解できたようだ。彼はあの謎の男は見かけておらず、屋敷内でそんな大事件が起きていたことも知らなかった。状況を考えると間一髪の幸運だったに違いない。ひとまず、今日は屋敷から外へ出ないことを固く約束させた。


 しかし男がすでに屋敷から立ち去ったのか、それとも未だに屋敷内のどこかに隠れ潜んでいるかはまだ分からなかった。それで茜は熊川とともに戸締まりを点検しながら見て回ることになった。危険だがこの場で留まっていても解決せず、警察がすぐに駆けつけてくれるわけでもない。妃倭子の介護を放って隠れておくわけにもいかなかった。


 引田は広都とともに残り、電話で麓の警察署と会社への連絡を引き受けた。屋敷の固定電話はエントランスの隅に設置した棚に備え付けられている。暗がりにあるので今まで存在に気づいていなかった。


 掃除用具入れから柄の長いほうきとデッキブラシを持って一階から見回りを始める。キッチンから包丁をたずさえていくことも検討したが、たとえ暴漢でも自分たちが包丁で刺したり切ったりできるとも思えず、むしろ相手に武器を渡すことにもなりかねないと考えてやめておいた。


 玄関のドアに鍵を掛けて、ヘルパーたちの私室にも入って窓に鍵を掛ける。鍵は単純なクレセント錠だが、窓の外には面格子めんこうしが付いているので出入りは不可能だった。浴室とトイレも確認して、廊下やリビングの窓にも鍵を掛けて回る。こちらの窓は面格子がないので、ガラスを叩き割って押し入られる可能性はあった。

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