第29話

「え……」


 突然の状況に驚いて、茜は照明のスイッチに手を添えたまま体が固まる。男は青黒い不気味な顔に血走った目を大きく開いてこちらを凝視している。体は衣服を全く身に着けていない裸で、筋肉質の肌は切り傷が無数について血と泥に汚れていた。髪は濡れた海藻かいそうのように頭にこびり付き、鼻は上から押し潰したようにひしゃげている。そして口は歯を剥き出しにして大きな肉の塊にかじり付いていた。


「だ、誰……」


 声にならない言葉が漏れる。あまりに予想外の光景に頭と体が追いつかない。一体誰? 何をしている? 獣のような男も一切声を発することなく、口の端から短い呼吸を繰り返していた。


 辺りには熊川が作ったパンの切れ端が散らばり、床には牛乳パックが横倒しになって中身が零れている。中腰になった男の右手には大型の三徳包丁が握られていた。


 沈黙の数秒が、恐ろしいほど長く感じられた。逃げるか、声をかけるかといった発想はない。少しでも動けば男は肉を吐き出して、牙を剥いて襲いかかってくると感じた。どうする? だが事態は茜が考えるよりも早く動いてしまった。


「茜ちゃーん、何か言ったー?」


 引田の間延びした声が背後から聞こえる。


「引田さん! 逃げて!」


 咄嗟とっさに茜は声を上げる。


 それと同時に、血まみれの男が包丁を振り上げて飛びかかってきた。


「あ!」


 思わずった茜はクーラーボックスの重みに耐えきれず体勢を崩す。男の包丁が、たった今まで茜が右腕を添えていた壁にぶつかった。一瞬、互いの視線が間近で交差する。男が口にくわえていた物が、朝食に出したベーコンの塊だと気づいた。刺される、と思ったが、男はさらに跳躍してキッチンから飛び出した。


「ひゃっ! 何?」


 続けて引田の悲鳴が聞こえて、どすんと大きな音が聞こえた。茜がクーラーボックスの肩掛けベルトを振り払ってダイニングへ戻ると、引田が床に尻餅をついて目を丸くしていた。男の姿は見当たらない。


「引田さん!」


「あ、茜ちゃん! い、今の……」


「分かりません! 大丈夫ですか?」


「だ、あ、わ……」


 引田は訳が分からないといった顔で首を振っている。見たところどこも怪我をしている様子はない。茜は萎えそうな体に力を入れて、腰の引けた不格好な体勢でダイニングからエントランスのほうを覗く。そこにも男はおらず、玄関ドアから外の光が一条の帯となって射し込んでいた。


「ど、どうしたの? 栗谷さん。大騒ぎして」


 屋敷の奥から熊川が現れて小走りで近寄ってくる。異常事態を察してか、さすがに戸惑いの色を見せていた。


「熊川さん、今、誰かに会いませんでしたか?」


「誰かって、どういうこと? 私、妃倭子さんの寝室を掃除していたんだけど。あなたたちいつ帰って来たの?」


「たった今です。それでキッチンへ行ったら、そこに男がいたんです」


「男? 嘘……誰が? 私、誰も見ていないけど」


「本当です。は、裸で、泥だらけで、血まみれで、肉をくわえて……」


「肉?」


「冷蔵庫を漁っていたんだと思います。それで私たちも包丁で襲われて、ここから出て行きました」


 茜は話すのももどかしく早口で説明する。熊川にとっては意味不明だろうが、それでもおおよその事態は伝わったようだ。


「襲われたって、大丈夫だったの? 引田さんは……」


「私も引田さんも平気です。それより、あの男を、早く捕まえないと……」


「ちょっと待て。栗谷さん、落ち着いて」


 熊川はエントランスへ出ようとする茜の左腕を強く掴んで制する。


「今の話だと、その男、包丁を持っているんじゃないの? そんなのどうやって捕まえるの?」


「それは……」


 茜は熊川の質問に答えられず、その場で足を留める。すると恐怖心が遅れて背後から肌を波打たせた。敵意を剥き出しにしたような血走った目に、ベーコンを塊のまま頬張る口元。手には包丁を握り締めて、こちらが話しかける前に飛びかかってきた。熊川の言う通り、あんな獣のような男をどう捕まえるのか。むしろこちらが押さえ込まれて、今度こそ刺し殺されるだろう。


「とにかく栗谷さん。キッチンに変な男がいたのは分かった。でも私がここへ来た時には見なかった。じゃあ外へ逃げて行ったんじゃない?」


「そ、そうかもしれません……」


 エントランスから見える玄関のドアは少し開いている。あとから屋敷に入って来た引田が閉め忘れたのか、男が出て行ってそのままにしたのか。


「ひとまず屋敷のドアと窓に鍵をかけておいたほうが良さそう。栗谷さんも手伝って。引田さんも……」


「どうしよう……光江ちゃん。私、私……」


「……大丈夫ですから、落ち着いてください。心配いりません」


 熊川はパニックを起こしている引田に近づくと、その手を握って安心させる。常に頼もしげな彼女が腰を抜かして震えている姿は意外だったが、無理もない。茜は男に気づいてから飛び掛かられるまで間があったが、彼女は何の予告もなく突然襲われたのだ。心臓が止まるほどショックだったに違いない。熊川ももう少し早くここへ来ていたら危なかった。


 その時、茜は恐ろしい予感を抱いて息をんだ。


「く、熊川さん。広都君は?」


「広都君? ……見てないけど、二階かな?」


 熊川の返答を聞く間もなく、茜はエントランスへと飛び出して屋敷の奥へ向かった。男は玄関から外へ出て行ったかもしれない。しかし出て行かなかったとしたら、広都の身が危ない。熊川はここへ来るまで妃倭子の寝室にいたと言っていた。茜の目から離れて、熊川の目にも留まらなかったとしたら、途中の大階段を上がって二階へ行ったことになるはずだ。


 混乱する思考を押さえつけて、興奮でバラバラになりそうな体を無理矢理動かして大階段を駆け上る。もし再び男と出会ったらどうするとは考えなかった。とにかく広都の身を守り、安全を確保しなければならない。二階の廊下へ出て素早く左右を窺う。人の姿はなく、薄暗い直線が伸びている。続けて左手にある一つ目のドアを開けて中へ踏み込むと、子供部屋の中央に座り込んだ男児の小さな背中が見えた。


「広都君!」


 茜は滑り込むように駆けつけて呼びかける。耳の聞こえない広都だが、空気が動くのを感じたのか振り返って顔を見せた。庭から帰って来たばかりなのか、彼の周囲には虫カゴや虫取り網やゴミ袋などが散乱している。

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