第28話

「あれ、駄目かな? じゃあ、実はもう家に帰っていましたとか? 遭難だ、大変だって大騒ぎしてるのはここの人たちだけで、本人たちは捜索活動が行われていることすら知らなかった。どう、ありそうじゃない?」


「……麓の駐車場に車が残されていたそうですから、その可能性も低いと思います」

「そうなんだ。じゃあ……どうしているのかな? 茜ちゃんの話だと、どうしても不幸なことになっちゃいそうだね」


「あ、いえ、そんなつもりは……」


 茜は苦笑して窓の外に目を向ける。自分は何かにつけて疑り深くて、悪い方向にとらえる傾向がある。遭難したカップルの状況は絶望的だと思うが、それを気に病んだところでどうしようもなく、そもそも自分には関係のないことだった。


 車道はやがて町を通り過ぎて、森の比率が高まっていく。小さな集落を通り過ぎたあたりで、のぼりの立ち並ぶ長い石段が目に入った。風にひるがえった白い旗には『鬼子母神堂』という文字が見えた。


「キシモ……」


「え、何?」


 茜のつぶやきに引田が返事する。幟と石段の光景はあっという間に過ぎ去っていった。


「今、道の途中で幟のような物が立っていたんですけど、そこにキシモ……キシボ? 鬼と子と母みたいなことが書かれていました」


「ああ、鬼子母神きしもじんさんのこと?」


「鬼子母神さん?」


「お堂があるみたいだねぇ。行ったことないけど」


 引田は特に関心もない風に答える。茜はスーパーマーケットで出会ったレジ係の女が、屋敷のある岸尾山のことをキシモ山と呼んでいたのを思い出していた。


「茜ちゃんは知らない? 鬼子母神さん。うちの田舎にもあったよ」


「あ、他にもあるんですね。いえ、知りません。鬼がまつってあるんですか?」


「そうそう、鬼母おにはは。いやいや、ありがたい神さまだよ」


「え?」


「子供の頃に教わった話だけどねぇ……」


 引田はそう言ってから山道の大きなカーブを曲がる。それからしばらく進んでから改めて口を開いた。


「昔々あるところに、とても悪い鬼母がいました。鬼母には子供が千人もいましたが、その子供たちにお乳を与えるために、鬼母は人間の子供をさらって食べていました。それでみんなから大変に怖がられて、憎まれていました」


 引田は語り聞かせるようにゆっくりと話す。きっと子供の頃にそのような調子で話を聞いたのだろう。


「そんな鬼母の悪い行いを見かねたお釈迦しゃかさまは、ある時、鬼母が一番可愛がっていた、一番小さな鬼の子供を隠してしまいました。鬼母は自分の子供がいなくなったことに気づいて、あちこち捜し回り、わんわん泣いて、ついにはお釈迦さまにすがって見つけてほしい、助けてほしいと必死でお願いしました。


 するとお釈迦さまが仰った。千人のうちで一人の子供がいなくなっただけでもお前はそんなに嘆き悲しんでいる。それでは、たった一人の子供を奪われて食べられた人間の父母の苦しみはどれほどのものだろう、と。そう諭された鬼母は心を改めて、もう人間の子供を食べないと誓いました。それでお釈迦さまは隠していた鬼の子供を鬼母に返してあげました。


 そうして子供を襲わなくなった鬼母は、やがて安産と子供を見守る鬼子母神となって人々から敬われるようになりましたとさ。めでたしめでたし」


「そんな話が、あるんですね……」


「うん。違うところもあるかもしれないけど、大体そんな感じ。いやぁ、意外と覚えているもんだねぇ」


 引田は照れ臭そうに笑う。悪い鬼がお釈迦さまにさとされて神さまになるのは、いかにも仏教的で分かりやすい。他にも祀られているところがあるなら有名な逸話なのだろう。


 しかし茜はその逸話にもどこか現実との不吉な繋がりを感じてしまう。黒い布袋を被り、硬直した体と青緑色の肌を持ち、生肉のスープをすする妃倭子。そんな母親を鬼か怪物のように描き、人目を避けて屋敷で育てられている広都。母は嘆く声も上げられず、息子は母の声を聞くこともできない。鬼子母神と一致するところは何もないが、引田の話から想像したのは二人の姿だった。


「……引田さん、お屋敷のある岸尾山って、もしかして本当は鬼子母山って名前だったんじゃないでしょうか?」


「え、何それ? 鬼子母神さんだから鬼子母山ってこと? でも私は岸尾山って聞いているよ」


「さっきのスーパーでそんな話を聞いて……いや、よく分かりませんけど」


「鬼子母神さんのお堂もあったから、昔はそうだったのかも。面白いね。茜ちゃんはそういう話が好きなの?」


「そういうわけでもありませんが……」


 茜は言葉を濁して会話を流す。岸尾山と鬼子母山。もし本当にそうだとしたら、いつ、誰が、どういう理由で名前を変えたのだろう。そこにも何か、隠したい意図があるように思えて、それがまた屋敷の母子に繋がっているような気がした。千人の子供の一人を隠されただけでも嘆き悲しんだ鬼子母神。今の妃倭子が広都を思うことはあるのだろうか。


 茜は無意識の内に、自分の腹を両手でそっと押さえていた。誰にも知られず、生まれてこなかったあの子。忘れることなどできるはずもなかった。


二十一


 屋敷のある敷地へ到着すると、茜は一足先に車から降りて邸宅へと向かう。運転を引田に任せて助手席で休んでいた負い目もあるが、答えのない疑問に思い詰めた時は体を動かして気を紛らわせるのがいいと知っていた。トランクを開けてクーラーボックスも重い方を選んで担ぐ。ずしりとした重みが肩と鎖骨を圧迫したが、腰で支えながら扉を開けてエントランスに入った。


「ただいま戻りましたぁ」


 言い慣れない台詞を控えめに発したが、屋敷内は無人のように静まり返っている。薄暗がりの広い空間と、外より少し冷えた空気と、にわかに漂う石が湿ったような匂いに、外の世界から引き戻された感覚を抱いた。


 熊川はどこにいるのだろうか、ひとまず荷物を片付けるためにダイニングからキッチンへ入る。日が傾いて窓から日光が入らなくなった室内は夜のように薄暗い。茜はクーラーボックスを担いだまま、ゆっくりと腕を伸ばして壁際の照明スイッチを入れた。蛍光灯がチカチカと二、三度明滅を繰り返してから点灯すると、ステンレスのシンクが光を反射してわずかに目がくらんだ。


 冷蔵庫の側で、血まみれの男が腰を屈めていた。

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