第43話
三十
昼食が終わると茜は私室で三十分ほど時間を潰したあと、改めてこっそりとドアを出る。すぐに動き回ると目立つので、部屋で大人しく過ごしているものと見せかけるのが狙いだった。昼食の際に聞いた話では、今ごろ引田は自分の部屋で昼寝をしている。キッチンのほうから聞こえる物音は、料理にこだわる熊川がカレーライスの仕込みを早々と始めているのだろう。広都はまた二階の子供部屋か書庫へ引き籠もったようだ。
外ではまた雨が降り出したらしく、エントランスはいつもより暗く、じめじめと湿っている。茜は緊張に強張る顔をそのままに、背筋を伸ばして屋敷の奥へと向かった。大丈夫、何もおかしなことはしていない。介護ヘルパーが空き時間に要介護者の様子に見に行っても何も問題ない。誰かに見つかっても疑われたり叱られたりする筋合いもない。そう自分に言い聞かせていた。
大階段の横を通ってリビングへ行くにつれて、空気の重みが増していくように感じられる。今日はすでに朝食と昼食の二回も通っているが、引田がいないせいか今はまるで世界が変わってしまったかのように
気を紛らわせるために手早く燭台に火を灯して寝室のドアを開ける。むっとした生温い刺激臭が鼻を突いて思わず手で顔を覆った。マスクを着け忘れたことに気づいて慌ててリビングへと引き返し、確実に装着してから再び寝室へ戻ってドアを閉める。外からの光が完全に遮断されると、寝室は手元の燭台だけが灯る暗黒の洞窟と化した。
そろり、そろりと寝室の中央にある天蓋付きのベッドへ近づいていく。介護に来たわけではないので他の燭台にまで明かりを灯す必要はない。しかしお陰で周囲の闇は深くなり、存在しないはずの視線が四方から向けられているような気がした。かすかに響くサアアアというノイズ音は外の雨だろうか。閉めきった室内は湿気が充満しており、低温サウナのように蒸し暑かった。
息が乱れて、心音が高鳴る。茜は自らここへ来ておきながら、今すぐにでも逃げ出したいという矛盾した気持ちに戸惑い、焦りを覚えていた。妃倭子に会って謎の真相を確認したい。それはこれまで何を尋ねても一切反応がなかった彼女から、何かしらの回答を得ようと試みることに他ならない。その光景を想像すると、期待よりも恐怖が先立ち体を震わせた。
「妃倭子さん、お休みのところを失礼します。栗谷です」
天蓋のカーテン越しに上擦った声をかける。
「……介護の予定はありませんが、少々お伺いしたいことがあって来ました。入ってもよろしいでしょうか?」
やはりカーテンの向こうから返答はない。果たしてこの声は彼女の耳に届いているのだろうか。二秒、三秒、六秒待って、茜は意を決して布に手を差し込んで開いた。
「あれ……?」
その瞬間、茜は手を止めたまま硬直する。
ベッドの上には誰もいなかった。
「……妃倭子さん?」
無人の空間に向かって呼びかけたのは目の前の状況が信じられなかったからだろうか。妃倭子がいない。燭台をかざしてさらに覗くが、大きく皺の入ったシーツの他には何も存在しなかった。
どういうこと? 彼女はどこに消えた? 茜の頭は思考停止から混乱状態へと
その時、背後から強烈な気配を感じて総毛立った。
何かいる。
茜は思わず取り落としそうになる燭台を握り締めてから、緊張に軋む首を回してゆっくりと振り返る。
宮園妃倭子が、すぐ真後ろに立っていた。
(き、妃倭子さん……)
茜は声を出せずに唇だけで呼びかける。頭から黒い布袋を被った背の高い妃倭子が、いつの間にか背後に現れていた。体の横で腕をだらりと垂らして、足を
茜も彼女の真似をするかのように、棒立ちになったまま動けない。いつか見た光景。初日の夜に夢で見た妃倭子の姿そのままだった。しかしこれが夢でないことは分かりきっている。ベッドに横たわったまま動かないはずの彼女が、手を伸ばせば触れられる距離で立っていた。
「お……お目覚めだったんですね、妃倭子さん。ベッドにおられなかったので、私、びっくりしました」
茜は引田のように砕けた調子で話しかける。しかし喉が詰まってうまく声が出なかった。驚くことはない。妃倭子が時折立って歩くことは引田からも聞いていた。しかし、いつの間に背後へ来たのか? もしかすると、ベッドにいるものとばかり思い込んでいたので、最初からそこにいたことに気がつかなかったのかもしれない。周囲の暗さを見るとその可能性もあった。
「何か、なさろうとしていたのでしょうか? 私で良ければお手伝いします。それとも、もうベッドにお戻りになりますか?」
なおも尋ねるが妃倭子から返事はない。顔が隠れているので表情も見えず、何を考えているのか、何も考えていないのかも分からなかった。
対峙したまま無言の時間が経過するにつれて、次第に茜は落ち着きを取り戻していく。眼前に立ち塞がる妃倭子の姿は、まさしく直面している謎そのものに見えた。違和感と恐怖を体現しながら、一切の干渉を拒否し続ける存在。彼女を守るためには、彼女に立ち向かわなければならなかった。
茜は少し息を止めてから再び口を開いた。
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