第26話

 スケッチブックから顔を上げると広都はどこにも見当たらなくなっていた。窓から入る陽光は埃をまたたかせて、屋敷の暗がりを余計に深くしていた。一人残された茜は、男児の無表情に隠れた狂おしい感情に初めて触れた気がした。


十九


 妃倭子への昼食の介助は引田と熊川が引き受けたので、茜は代わりに自分たちと広都の昼食を担当することになった。自分と家族以外の他人に料理を出す経験などほとんどなく、プロの実績がある熊川と、この屋敷で作り慣れている引田に敵うはずもない。レシピを見なくても辛うじて様になるものとして、サンドイッチとコーンポタージュを作って誤魔化すことにした。サンドイッチの具材はベーコンと卵とチーズとレタスで、コーンポタージュは缶詰だ。さすがにこのメニューで失敗することはない。その他に作れる料理と言えば、いくらでも言い訳の立つカレーライスくらいだった。


 幸いにも引田と熊川から文句が出ることもなく、広都も拒むことなく頬張ってくれた。彼が書庫から姿を消してからどこへ行ったのかは分からなかったが、昼食の時刻になるときちんとダイニングに顔を出した。一人遊びを邪魔したのではないかと気にしていたが、特に怒ることもねることもなかった。いや、そもそも感情を表に出すこともないので、どういう心境でいるのかも分からなかった。


 昼食が終わると引田と共に麓の町へと買い出しに行くことになった。引田は外へ出るのが嬉しいのか、普段以上にうきうきとしている。庭に出て車に乗り込む前に、屋敷の側面に小屋が付いているのが見えた。倉庫というか納屋というか、屋敷と同じく古びた作りで、細長い木のドアが見える。引田に尋ねるとその通り、物置小屋だと答えた。


「あそこにはお庭の掃除道具とか、お屋敷でいらなくなった物とか、災害用の備蓄品とか、もしもの時のための車の燃料なんかを入れているよ。その内整理しなきゃと思っているんだけど、なかなか……。そうそう、前に車のバッテリーが上がって動かなくなって大変なこともあったの」


「そういう時ってどうするんですか? 自動車に詳しい人……修理の人を呼ぶんですか?」


「こんな山奥まで来てくれないよ。いや、来てくれるかもしれないけど、絶対高いでしょ? 仕方ないから物置小屋から古い発電機とケーブルを出してきて、車に繋いで復活させたの。凄いでしょ」


「凄いです……引田さんはそんなこともできるんですか?」


「高砂さんから電話で聞いたの。助けてーって言ったのに、自分で何とかしなさいって。でもさすが年の功だね。光江ちゃんと協力して、言われた通りにやってみたら直ったよ。面白かったよ。あ、年の功は内緒ね」


 引田は得意気にそう言って笑う。人里離れたところに住んでいると色々とできないと困る。それと彼女のように何事もポジティブに捉えることも重要だろう。


 昨日、屋敷を訪れる際に通った道を逆に進んで、山を下りて麓の町へと到着する。茜にとってはたった一日前に来ただけだが、アスファルトで舗装された道路がやけに懐かしく、対向車が珍しく、道行く人々が騒がしく感じられた。町と言っても都会と比べると寂れた一地方に過ぎない。何年前に閉店したのかも分からないガソリンスタンド、【空き店舗・テナント募集】の貼り紙すらも色褪いろあせてがれかけた喫茶店。広大な駐車場を備えたチェーン店のスーパーマーケットと、同じくチェーン店のレストランが真新しく目立っている。そして山の斜面と川のほとりに挟まれて古い民家が軒を連ねていた。


 車は最初に町の外れまで行って地域のゴミ処理施設を訪れる。青い制服を着た職員の老人は引田とも顔馴染みらしく、簡単な挨拶だけで中へ入れてくれた。屋敷で出る日々のゴミはさほど多くないだろうが、ある程度溜まってからここへ捨てに来るらしいのでそれなりの量がある。重くて匂う生ゴミは引田が引き受けてくれたので、茜は別の場所にある缶・ビン・ペットボトルの廃棄を手伝った。


 それが終わると先ほど見かけた大型スーパーマーケットへ行って買い出しとなった。ここはホームセンターやアパレルショップも併設しており、地域の拠点的な役割をになっているようだ。そのため平日の午後にもかかわらず客は多く賑わっている。引田は通い慣れた様子で洗剤やゴミ袋などを選び出し、食料品も次々とカートに入れていった。


 山盛りの商品を乗せたカートを押してレジへ支払いに向かう途中、引田はお手洗いに行くと伝えて財布を預けて離れて行った。その時茜は、やはり昨夜に熊川が話した新人ヘルパーの話は嘘に違いないと気づいた。もちろん茜は財布や中の現金を盗んで逃げる気などさらさらないが、もし引田が過去に屋敷で泥棒に遭っていたなら、派遣二日目の新人をここまで信頼しないだろう。思わぬところで確かな証拠が得られた。

 しかし、それならなぜ……


「あら、もしかして山の人?」


「え?」


 ふいにレジ係の女から声を掛けられて茜は思考を中断する。女はカゴに入った商品のバーコードをスキャナーに読み取らせながら、こちらに尋ねるような表情を見せていた。五十代か六十代か。見た目よりも声は若々しく、仕事はてきばきとしている。レジ打ち専門でパート勤務をしているベテラン店員のようだ。


「違っていたらごめんなさいね。あんまりたくさん品物を買っていくから、山のほうに住んでいる人が下りて来たのかなと思って。ほら、そういう人って一回にまとめ買いする場合が多いじゃない」


「あ、なるほど……ええ、そうですね。買い出しのためにここへ来ました」


「ああ、やっぱり。この辺りって交通の便が悪くて大変よね。ジャガイモは買った? 今日セールしてるわよ。それと冷凍食品も半額ですって」


「は、はい。確か買っていたかと思います」


「あ、本当。入ってるわね。そうそう、この間の大雨は大丈夫だった? こっちは特に酷くて、川が氾濫はんらんするかもしれないってみんな怖がっていたのよ。何でも大昔に一度、水が溢れて村中が水浸しになったとか。前に主人のお義父とうさんが大変だったって話していたのを思い出しちゃった」


 女は大量の商品をさばきながら早口に喋り続ける。見慣れない顔なので話しかけてきたのか。茜は田舎特有の無遠慮な距離感に戸惑いつつも、愛想笑いを浮かべて相槌あいづちを打っていた。好き嫌いはともかく、こういう人とは仲良くなっておいたほうがいい。屋敷で働いている限り彼女とも顔を合わせる機会も度々たびたびあるだろう。

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