第25話

 子供部屋の隣は再び空き部屋らしく、先ほどと同じく何もない一室になっている。その隣も空き部屋だったが、さらに隣は他よりも大きな両開きのドアが付いており、開けると書架の立ち並ぶ大部屋になっていた。書庫と呼ばれる部屋だろうか、無数の本を詰め込んだ棚が図書館のように壁と通路を作っている。他の部屋とは違って物陰の多い暗がりの中に、紙と埃の匂いが充満していた。


 茜は掃除機を扱いながら、ゆっくりと本の森を巡り歩く。並んでいるのは重くて分厚い大型の書籍が多く、文庫本は見当たらない。ジャンルも経済学や哲学、工学や天文学など、まるで大学の学部を網羅するように分別されており、小説もはこに入った文豪の全集がずらりと並んでいた。この圧倒的な分量は一人の手によるものではなく、屋敷を住処すみかにしてきた何世代もの主によって蒐集しゅうしゅうされた結果のように思える。少なくとも妃倭子の仕事ではないだろう。


 書庫の奥へと進み窓際に近づいたところで、茜はふと足を止める。窓から射し込む陽光の下、広都がこちらに背を向けて床に座っていた。耳が聞こえないので掃除機の音も聞こえず、茜の存在にも気づいていないのか。それとも気づいていながら無視しているのか。男児がこちらを振り返る様子はない。茜は掃除機のスイッチを切って近づいた。


 広都は床に置いた大きなスケッチブックにクレヨンで絵を描いているらしい。背後の書架は他の物と同じ作りだが、並んでいる本は絵本や子供向けの昆虫図鑑などカラフルな背表紙が目に付いた。そのかたわらには、代わりに抜き出した難しそうな本を積み木のように並べてミニカー用のコースが作られている。ここはどうやら彼のお気に入りスペースのようだ。


「広都君」


 茜が呼びかけると気配を察したのか、広都はクレヨンを持つ手を止めて顔を上げる。彼は突然現れた茜に驚く風でもなく、なぜ呼びかけられたのか分からないといった表情を見せていた。それから自分の背後を振り返り、周囲を見回して他に誰もいないことを確認すると、もう一度茜のほうを見つめた。


「私一人だよ。今はお部屋のお掃除をしていたんだよ」


 茜はそう言って掃除機のノズルを持ち上げて見せる。すると広都は床に散らばったクレヨンを拾い集めて片付けを始めた。


「あ、いいよいいよ。遊んでいていいんだよ。何をしているのか気になって見に来ただけ。お絵描きしていたんだね。見てもいい?」


 茜は床に座って話を続ける。広都は眉根を寄せてじっと見つめていた。説明が複雑で意味が伝わらなかったようだ。聴覚に障害のある者は、特に相手の口元や身振り手振りからおおよその意味を理解する。ただ六歳児ではそれもままならないだろう。


 広都がスケッチブックに描いていたのはどうやら恐竜の絵らしい。アンキロサウルスやタルボサウルスやバリオニクスなどが全体的に小さなサイズで白いキャンバスに並んでいた。恐らく図鑑の絵を模写したのだろうが、あまり上手ではない上に、そもそも恐竜に詳しくない茜の目にはどれも似たような怪獣にしか見えない。判別できるのは絵の下にしっかりと、時には恐竜よりも大きく名前が書かれているからだった。


 別のページでは恐竜の代わりに昆虫が、同じようにやや小ぶりに描かれて規則正しく整列している。それを目にして茜は、広都は昆虫標本のつもりで絵を描いていることに気がついた。自分で採れない、作れないなら絵にしてしまおうとは、子供らしい突飛な発想だ。昆虫の絵にもカブトムシや、ノコギリクワガタや、ナナホシテントウなどちゃんと名前が付けられている。これらは絵を見ただけでも何となく判別できた。しかしその下のクヌギシギゾウムシや、ジガバチや、アカスジキンカメムシなどは絵を見ても名前を読んでもピンと来ない。大した収集家だった。


 その次のページには、四人の人物が描かれていた。


 茜はその絵を見て手がぴたりと止まった。キャンバスの上段には丸い顔に四角い体、棒の手足が伸びた人物が三人並んでいる。それぞれ緑色やオレンジ色のクレヨンを用いて、子供らしいタッチで描かれていた。左にいるのは引田千絵子だろう。ぱっちりとした目と額の中央にある大きめの黒子が特徴的で、髪を後ろというか真横に束ねている。その隣にいるのは熊川光江だろう。引田よりも背が低く、胴体が大きい。長い髪と細い目もそう思わせた。


 そうなると、熊川の隣にいるのは茜だろうか。二人よりも小さく地味に描かれている。短髪で顔も三つの点に省略されているので真偽の程は定かではないが、高砂藤子のつもりならこうは描かないはずだ。広都の目からは何の特徴もない女に見えているのか、あるいは彼にとってはその程度の印象しかないのか。昨日出会ったばかりなのでそれも仕方がないだろう。


 しかしそんな感想も、下段に描かれている人物を一目見て消し飛んだ。


 並ぶ三人の絵の下にはもう一人、別の女が描かれている。女と思ったのは頭に長い髪らしきものがあり、四角い胴体が下へいくほど横に広がりスカートのように見えたからだ。しかしその顔は目が極端に大きく、輪郭からはみ出して吊り上がっている。口も同様に顎を超えて胸の辺りまで開いてギザギザの歯が無数に生えていた。


 四人目の女は他の三人と違って黒一色で描かれている。それだけではない。他の三人が胴体から手の先まで一本の棒線で省略されていることに対して、この女だけは右手の先に鉤爪のような指が五本生えていた。さらにその手で人形らしきものの首を掴んでいる。人形は足を宙に浮かせて腕をだらりと垂らしていた。


 そして絵には、大きな×印が何重にも付けられていた。


 茜は呆然とした表情で絵を見つめている。何の絵? この人物だけは他とは異なり、拙さよりも感情的な乱れが強く感じられた。三人のヘルパーの下、見下ろす位置に立つ怪物のような女。黒く禍々まがまがしい手が掴んでいるのは本当に人形だろうか。どうしてこの女にだけ×印が付けられているのか。×印が間違いや失敗の印と見なすのは学校へ入ってからのことだ。幼い子供が思い通りの絵が描けなかったとしても×印を付けることはないだろう。


「妃倭子さん……」


 茜は疑いようのない答えをつぶやく。広都が描いたのは母親の姿だ。現実の宮園妃倭子とは全く似ても似つかないが、彼の目にはこう見えているのだろう。変わり果てた母親と対面して、その印象をそのままスケッチブックに描いた。×印は絵の失敗を意味しているのではない。描いた母親を否定する意味で付け加えたのだ。

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