第24話

「高砂さんじゃないです。新人さんで、半年くらいお屋敷で働いていたって」


「え、誰のこと? 半年くらいで辞めちゃったの?」


「はぁ……あまり素行が良くなかったらしいので」


 茜は言葉をぼやかして答える。妃倭子の前で屋敷から宝石や時計を盗んだと話すわけにはいかない。たとえ身動き一つ取れない状況でも、聴覚だけは健全に機能しており話を聞いているというケースもまれにあるからだ。


「素行が悪くて半年くらいで辞めちゃった新人さん……誰だろう。何の話かさっぱり分からないけど」


 ところが引田は一つも覚えがないような表情を見せている。誤魔化している風でもなく、本当に何も知らない様子だった。


「そんな人がここに来たことはないよ。他で働いているヘルパーさんが来てくれたこともあるけど、悪い人なんていないし、半年も住んでいたことなんてないからね」


「そうなんですか? じゃあ、何のことだったんでしょうか……」


「さあ? 光江ちゃんの冗談だったんじゃない?」


「熊川さんの冗談……」


「あの子っていつも真顔だから分かり辛いんだよねぇ。違うのかな? 気になるなら私のほうから聞いてみようか?」


「あ、いえ……それは結構です。きっと何か勘違いをされていたんでしょう。私には関係のないことですから」


 茜は首を振って断る。熊川があの状況で冗談を言うとも思えない。しかし勘違いとしても内容が具体的すぎる。では、どういうことだろう。彼女が嘘をついた? 一体何のために? 全く理解できない。ただ、彼女の発言を信用すべきではないのは確かなようだ。


十八


 妃倭子への朝食介助を終えた後、茜は次に屋敷内の掃除を任された。昨日、引田が一週間かけて取り組んでいると話していたが、この広さを見ると無理もないと実感していた。今日はひとまず二階の廊下と部屋に掃除機をかけるよう指示を受けたので、屋敷の中央付近にある階段を上がる。引田と熊川もそれぞれ一階や庭で掃除や片付けを行うようだ。


 二階は階段を中心に廊下が左右に伸びており、それぞれ複数の部屋が設けられてる。やはり全体的に広い作りになっており、廊下は寝転がれるほど幅があり、ドアは腕を伸ばしても上端に届かないほどの高さがあった。床には迷路のような幾何学模様が描かれた臙脂色のカーペットが敷かれ、窓からは森の高い木々の上に青い空が眩しく見えている。窓を開けると茜の登場を待ち構えていたかのようにセミの大歓声が聞こえてきた。


 階段脇の納戸なんどから掃除機を持ち出してスイッチを入れる。掃除機は茜が自宅で使っている家電製品よりも遥かに大型で、いわゆる業務用と呼ばれるものだ。銀色に光る無骨な円筒状の本体に、長い柄と広い吸込み口が付いている。電源コードは異常に長く、吸引力は強力で、音はうるさかった。


 廊下の右手にある一つ目の部屋はソファとテーブルの置かれた応接室のようになっていた。古めかしくも豪華な作りだが、最近使われた様子はなく、掃除が必要と思うほども汚れていない。それでもほこりは積もるだろうから、一応は掃除機で部屋を一回りしておいた。


 黄土色の壁には油絵で描かれた大きな風景画が二点架けられている。一つは見覚えのない山々と空が描かれていたが、もう一つは外から眺めたこの屋敷の姿が描かれていた。絵の中の屋敷は真新しく、庭には花々が咲き誇り、敷地の入口にはもう存在しなかった黒い格子の門が閉じている。誇張気味に描かれていることを差し引いても、随分と以前に描かれたものらしい。そこには現在の屋敷に漂う廃墟のような暗さと寂しさは感じられなかった。


 応接室の隣は空き部屋らしく、調度品の類も置かれていない一室になっていた。屋敷にはこのような部屋が他にもいくつかあるらしく、その隣も空き部屋だった。さらに隣はビリヤード台やダーツの的などが置かれた遊戯室になっていたが、やはりここも今は誰も使用していないらしい。海外の古い映画で見たことのあるような光景に茜は妙な胸騒ぎを覚える。そういうシーンでは大抵、不穏なBGMが流れているからだ。


 遊戯室の掃除を終えてその隣、廊下の突き当たりの部屋へ向かったが、そこはドアに鍵が掛かっていて中へは入れなくなっていた。金色の丸いノブを何度か回したがドアは開かず、試しにノックをしてみたが中から返答もなかった。ここが広都の子供部屋かと思ったが、六歳児が自分の部屋に鍵を掛けているとも思いにくい。屋敷の人間、妃倭子と広都をここに住まわせている身内の者が閉めきりにしたのか。訪問介護のヘルパーたちも開けない取り決めになっているのか。事情は知らないが、掃除をする必要はないものと判断して茜はその場から立ち去った。


 階段へと戻って左手にある一つ目の部屋を覗いて、こちらこそが子供部屋だったと分かった。カーペットの敷かれた部屋の中央には小さなテーブルがあり、その近くには画用紙や玩具が散乱している。周囲には背の低いキャビネットや収納ボックスが置かれ、壁際にはこぢんまりとしたベッドが据えられていた。明らかに今も使用されている部屋に違いない。ただし広都の姿はどこにも見当たらなかった。


 茜は掃除機で小物や玩具を吸い込まないように気をつけながら子供部屋を一回りする。テーブルの上には恐竜や自動車のミニチュアがあり、収納ボックスには木の枝や石や何かの部品らしきプラスチックのパーツが乱雑に詰め込まれていた。三段のキャビネットにも恐竜や動物の図鑑が並んでおり、破れた紙の表紙がセロテープで補修されている。全聾のせいか大人しく、それゆえに思慮深く気難しそうに見えた広都だったが、この部屋の様子を見る限り年相応の男児と変わりがないように思えた。


 キャビネットには図鑑の他にも何やら工作物が並べられている。段ボールで作った同じサイズの箱が三つ。気になって取り出して見ると、広都が作成したであろう昆虫標本だと分かった。チョウやガ、トンボやハチやテントウムシや、よく分からない地味な色の甲虫が画鋲がびょうで刺し留められている。恐らく庭で見つけた死骸を拾い集めて来たのだろう。いくつかははねや足が失われていた。


 拙い手で作られた昆虫標本は不気味にも見えるが、小さな男の子ならこういった趣味も珍しい話ではないのだろう。茜も子供のころには同じ年頃の男子がバッタやカエルを捕まえてきたり、怪獣の真似をしながらアリの巣を踏み潰したりするのを見たことがある。この屋敷の庭なら都会よりも遥かに多くの昆虫が生息しているだろうから、死骸を集めて標本を作るのもきっと楽しいはずだ。ただ広都が不憫なのは、近くに同年代の子供がいないことだった。

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