第23話

 キッチンでは既に引田が朝食の支度したくに取りかかっていて、茜は手伝いというか話し相手に付き合うだけだった。昨日に熊川が作ったパンを温めて、ベーコンと卵を焼き、サラダとスープを作っている。料理は苦手と言っていたが一日おきに任されているだけあって手慣れたものだ。朝食と言えば食べないかダイエットスムージーで済ませていた茜に出る幕はなかった。


 大きな冷蔵庫の隣には、それより一回り小さくした一つ扉の冷凍庫が設置されている。引田に促されて扉を開けると、中には小分けにして保冷バッグに入れた赤い肉の塊が大量に詰め込まれていた。


「茜ちゃん。今日の日付が書いてあるのが三つあるでしょ。その中で一つある小さい物を電子レンジで解凍して」


「これは、妃倭子さんの?」


「そう、妃倭子さんのご飯。だからそっちの冷凍庫に入っているのは私たちのご飯には使わないでね」


 つまり小さい肉塊はこの後の朝食となり、残りの二つは昼食と夕食用ということだ。あとで卵なども入れるようだが、本当に妃倭子は毎日ほとんど肉だけを食べて生きていた。茜は引田から電子レンジでの解凍方法を教わり処理する。保冷バックの中でレンガのように固まった肉塊は既に加工されてミンチ状になっていた。


 隣のダイニングでは熊川と広都が席に着いて、恐らく広都が持って来たスケッチブックにお互い絵を描き合って遊んでいた。無愛想な熊川もさすがに六歳の男児まで邪険にすることはないらしい。ただ無口な熊川と口の利けない広都なので会話はなく、まるで落書きによる暗号通信を行っているような雰囲気だった。茜が朝食を運ぶと熊川は手を止めて広都にペンとスケッチブックを片付けさせた。


 四人で席に着いて朝食を摂る。茜にとって住み込みの仕事も初めてなら、仕事先で同僚たちと朝ご飯を食べるのも初めてのことだった。熊川は昨夜の出来事を引田に報告することもなく、うまいともまずいとも言わずに黙々と口を動かしている。やはり彼女は引田の前では大人しい。せめて彼女のほうから非難してくれたら反論もできるが、そういうつもりはないらしい。お陰で茜も告げ口する気になれなかった。


 ヘルパーたちと広都の朝食が終わると、今度は妃倭子の朝食が始まる。昨日と同じように引田と寝室へ向かい食事介助を行うことになった。ロウソクの火が灯る闇の世界は朝も夜も変わらず、茜は昨夜の悪夢を思い返して寒気を覚える。ただ、今は引田がいるので不安はなかった。


「おはようございます、妃倭子さん。今日もお元気ですかぁ?」


 引田は天蓋のカーテンを開けて明るい声で呼びかける。妃倭子は黒い布袋を被ってベッドに横たわったまま何の反応も示さなかった。彼女が立って歩いて、背後に回り込むなどできるとも思えない。茜は下半身のほうに回ると、引田と協力して妃倭子をベッドに座らせた。


「妃倭子さん、朝食のお手伝いをしますね。失礼します」


 そして黒い布袋を口元まで上げて頭を反らせる。自然と顎下がって口がぱかりと開いた。強烈な口臭が溢れ出したかと思うと、ぼとり、と何か塊のようなものが布団の上に落下した。


 何だろう。妃倭子の口から出たのは、五センチ程の黒ずんだ物体だった。少しためらったあと、ゴム手袋を付けた指で摘み上げる。塊からは樹脂のような弾力と、布のような繊維質が感じられる。食べ物で言えば牛肉のスジ肉に近い。いや、まさにスジ肉そのものに思えた。


「引田さん、これは……」


 茜は隣でボウルの肉を掻き混ぜている引田にその物体を見せる。


「妃倭子さんの口から出たように見えたのですが、何でしょうか?」


「え? うーん、何だろうね? 昨日のご飯をちょっと吐き戻しちゃったのかな?」


 引田はちらりと目を向けただけで気軽な調子で答える。


「昨日のご飯?」


「大丈夫だよ。たまにそういうこともあるから。あとで捨てるからトレイの上に乗せておいてね」


「はぁ……」


 茜は釈然しゃくぜんとしないままスジ肉をトレイの隅に置く。妃倭子の口内が負傷している様子もなく、出血の跡も見られない。痛みにも反応できないので注意深く見なければならないが、彼女の体に異変が生じたわけではないようだ。


 そうなると引田の言う通り、昨日の夕食を吐き戻したのだろうか。しかし一晩経っても未だ胃に固形物が残っているのも不自然に思えた。


 食事の準備ができたので、茜は妃倭子の喉に漏斗を深く挿し込んで支える。引田は充分に磨り潰されて液体となった生肉をスプーンですくってそこに落としていった。


 そうだ、そもそも妃倭子は固形物を口にしていない。彼女は三食ともにこの生肉のスープを喉に直接流し込まれているだけだ。固いスジ肉を吐き出すなど考えられなかった。


「それにしても、茜ちゃんが来てくれて本当に助かったよ」


 茜の疑念を気にすることもなく、引田はしみじみとつぶやく。


「妃倭子さんのお世話は二人で行うルールだからね。ご飯やお風呂のたびに手を取られて他のことができなかったんだよ」


「……あまりお役に立てているとは思えないのですが。今も漏斗を持っているだけですし」


「それが大事、その手が重要なんだよ。だってこの間に光江ちゃんはお洗濯ができるでしょ。私たちもこれが終わったらすぐお掃除に取りかかれて効率がいいの。効率がいいと時間が余るから休憩できるんだよ」


 引田は自分で言ってふふふと笑う。猫の手も借りたいではないが、半人前でも何かの間に合うと思われているならいいことだ。


「あとは、茜ちゃんだと私の話し相手にもなってくれるからね。だって光江ちゃんもあんまりお話ししてくれないでしょ? 今までずっと二人きりだったから、わたし寂しかったのよ」


「それは、まあ……」


 あまり社交的な性格ではないが、それでも熊川よりはましだと茜自身も感じていた。他には妃倭子と広都の母子おやこしかいないのだから、寂しかったと言うのも嘘ではないだろう。


 その時、茜は引田の言葉にわずかな疑問を抱いた。


「……でも、二人きりじゃなかった時もあったんですよね?」


「え? それってどういう意味?」


 引田は顔を上げて小首を傾げる。茜は少し迷ったが話を続けた。


「以前にもう一人、ヘルパーさんが勤務しておられたと熊川さんから聞いたのですが」


「光江ちゃんから? うーん、何のことかな? 高砂さんなら訪問のついでにお料理やお買い物を手伝ってくれることもあるけど」

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