第22話

「私、悲鳴なんて聞こえなかったんだけど」


「え、そう……ですか? でも本当に聞こえたんです。ギャーっていう大きな叫び声が、どこからか……」


「それ、鳥の鳴き声だから」


「と、鳥?」


「サギとかヨタカとかトラツグミとか、夜に鳴く鳥もたくさんいるでしょ」


 その時、タイミング良く屋敷の外からギャアギャアという声が聞こえてくる。昼間とはまるで違う、まさに叫び声のような鳥の鳴き声だった。


「都会だと馴染みないのかも知れないけど、ここじゃ毎晩のように聞こえてくるから。気にしないで部屋に戻って寝なさい」


「鳥……いえ、でも私が聞いたのは絶対に人の声だったはずです」


 茜は否定するが熊川は冷たく首を振る。黒い服を着ているせいか別人のように痩せて細く見えて、神経質そうな印象がさらに際立って感じられた。


「変なこと言わないで。ここには私たちの他には誰もいないのに」


「分かっています。ですから誰かの身に何かあったのかと……」


「何があるというの?」


「分かりませんけど、妃倭子さんは……」


「妃倭子さんは寝室でお休みだから。邪魔をしないで」


「熊川さんは……妃倭子さんのところにおられたんですか?」


 熊川が姿を現したリビングの向こうは妃倭子の寝室に繋がっている。ヘルパーたちの部屋からも遠く、トイレも浴室も別に設けられているので、ここへ足を運ぶ理由はないはずだった。


 熊川は顔を固めて少し沈黙した後、改めて口を開いた。


「私は、物音がしたから様子を見に行ってきた」


「やっぱり。熊川さんも何か音を聞いたんですか?」


「違う。私が聞いたのは、あなたが動き回る音だけ」


 熊川は素早く返して茜の思いを否定する。


「普段と違う音が聞こえたら、気になるのは当たり前。ただしそれは普段からこの屋敷に住んでいる人だけでしょ。初めて来たあなたに何が分かるの?」


「私の……でも私、物音なんて立てた覚えはありません。足音だって全然響かなかったはずです」


 茜はその場で足踏みをして訴える。音は柔らかな絨毯に吸収されるので、思いっきり踏みつけてもボソボソという音しか鳴らなかった。


 一つだけの燭台が灯る夜の屋敷内で、茜と熊川は対峙たいじしている。なぜ熊川は茜が聞いた叫び声をかたくなに否定するのだろう。たとえ自分が聞いてなかったとしても、怖いから一緒に屋敷内を見回ろうとか、戸締まりを確認しようとかいう話になるのが普通ではないか。あるいは気が済むまで勝手に調べてくればと突き放してもいい。聞き間違いだから部屋に戻れと決めつけるのはあまりにも理不尽で、不自然にも思えた。


 熊川は反論する茜に向かって、鼻から溜息をついた。


「……栗谷さんより前に、ここで私たちと一緒に住み込みで働いていたヘルパーがいたんだけど」


「いきなり何ですか? 前のヘルパーさん?」


「先輩の言うことも聞いて、それなりにちゃんと働いてくれていたけど、夜になると自分の部屋を出て、屋敷の中をごそごそと歩き回ることがあった」


 熊川は珍しく自分から話を始めている。ただ、ぽつりぽつりと怪談話でも語っているような口振りだった。茜は話の意図が掴みきれずに瞬きを繰り返す。屋敷の外から再び夜鳴き鳥の声が響いた。


「部屋に閉じ込めているわけでもないし、一応夜は自由時間だから私も引田さんも気にせず放っておいた。ある時に尋ねたら、夜中におかしな声や物音が聞こえたから妃倭子さんの様子を見に行っていたと答えていた。でも妃倭子さんは眠ったままで、私もそんな物音を聞いていなかったから不思議に思っていた。でもそれ以上は気にしていなかった」


「その人は、どうなったんですか?」


「半年ほど経ってから、ある朝、急に屋敷からいなくなっていた。会社の車を勝手に使って麓まで降りてどこかへ消えた」


「どういうことですか?」


「あとで調べたら、屋敷からいくつか妃倭子さんの持ち物がなくなっていた。ネックレスとか時計とか、多分お金も」


「なくなっていた……」


「ずっと前から狙っていたんだ。夜中にこっそり下見を繰り返して」


「……私が、泥棒だって言うんですか」


 話の意味に気づいて茜は腹の底から怒りが込み上げてくる。熊川は無表情のまま見返していた。


「私、泥棒じゃありません。下見だなんて、そんなことするはずが……」


「そいつだって私は泥棒だなんて言ってなかった」


「熊川さんは!」


「馬鹿、静かにしなさい!」


 熊川から吐き捨てるような口調で叱られる。茜は口を閉じると同時に奥歯を強く噛み締めた。


「あなたのことなんて知らない。違うと言うのなら疑われるような真似をしないで。今夜は叫び声なんて聞こえなかったし、別に何も起きていない」


「……分かりました。それでは、もう何があっても夜に部屋から出たりしませんから」


 茜は震える手で拳を握り締めると、きびすを返してエントランスから自分の部屋へと戻る。これ以上何を言っても熊川からは信じてもらえず、言い争いを続ける時刻でもないと悟った。妃倭子も屋敷も何事もないというならそれでいいだろう。


 言われてみれば耳にした女の悲鳴は本当に鳥の鳴き声だったかもしれない。先ほどは否定したが、もうはっきりとは思い返せなくなっている。しかしそれを彼女に向かって認める気にはなれなかった。


 熊川は茜の背後に付き従って、燭台の灯りを前方に向けている。彼女もそのまま自分の部屋に帰るのだろう。茜は挨拶もせずに背を向けたまま、ドアを開けて部屋に戻った。そのあとはもうどこから何の音も聞こえなくなった。


 ベッドに倒れて枕に顔を埋めて、機嫌の悪い犬のようなうなり声を押し殺す。悪夢を見てから引きずっていた屋敷と妃倭子への不安は、熊川への怒りと悔しさで一気に拭い去られた。私が泥棒だって? あんな嫌な女と一緒に仕事を続けるの? いつか感情が破裂してしまいそうで不安になった。隣の部屋にいる引田は悲鳴も聞かず、同僚たちのいさかいも知らないだろう。彼女の前向きな鈍感さを見習うべきかと思った。


十七


 翌朝、茜は午前七時に目覚めると、手早く着替えと朝の支度を済ませて屋敷のキッチンへと向かった。昨夜は再び悲鳴や物音を聞くことはなく、うつ伏せになって煩悶はんもんしている内に眠ってしまったらしい。お陰で体は気怠けだるく、首は寝違えたようにきしんでいた。

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