第21話

 ここは私の部屋だ。


 今日からは住み込みで働くことになった、宮園妃倭子の屋敷に間借りしている自分の部屋。夕食後にミーティングを開いて日報を作成し、順番に入浴を済ませてから部屋に戻った。


 夢だったのか。


 部屋に戻ってからの記憶はほとんどない。部屋の片付けなども考えていたが、疲れ切っていたので結局そのままベッドに倒れて眠ってしまったようだ。それでもちゃんと髪を乾かして、部屋の電気を消していたのは、几帳面な性格によるものか。枕元に置いていた腕時計は午前二時過ぎを示していた。


 状況が把握できるようになると次第に眠気も薄れていく。しかし妙に寒く、やけに喉が乾き、体が窮屈に感じられる。薄手の掛け布団を肩口から足の先までミイラのように巻き付けて、膝を曲げて胎児のように丸まっていたようだ。


 ブウゥーンというノイズ音が耳に届いて、茜は目を見開いて覚醒する。ベッドの上で転がり音のほうに目を向けると、窓際の壁面に備え付けられたエアコンがあった。どうやらこれが原因らしい。エアコンの冷房が想像以上に効き過ぎたために体が冷えて喉が乾燥したらしい。そして無意識のうちに布団にくるまったせいで身動きが取れなくなって悪夢にうなされていたようだ。


 どんな悪夢を?


 そう思い返した瞬間、ぞっと寒気が体を通り抜ける。慌ててエアコンのスイッチを切って布団をけた。体は冷えきっているのに背中は不快な汗でじっとりと濡れている。茜はうつ伏せになって大きな溜息をついた。


 夢の中で宮園妃倭子と対面していた。彼女の寝室を訪れて、ロウソクの火に囲まれたあの天蓋付きのベッドの前で、自力で立つ彼女と向かい合っていた。そして、あの黒い布袋が触れることなく彼女の頭から抜け落ちて、見てはいけない彼女の顔を見てしまった。


 しかしその顔は思い出せなかった。はっきりと見たはずだが、どれだけ記憶を探っても彼女の鼻から上はまるで写真を切り取ったように見えなくなっていた。それはそうだろう。実際に見ていないものを夢で補完できるはずがない。あの場で見たもの、体験したことは、全て自分の想像に過ぎない。真実からはかけ離れた、嘘偽うそいつわりの……。


 遠くから静けさを引き裂くような女の悲鳴が聞こえてきた。


 茜の思考がぴたりと止まる。今のは何? まだ夢を見ているの? いや、確かに外部から耳に届いたはずだ。古くて大きな木製のドアを開けた時のような女の叫び声。何かに驚いた程度で出たものではない。まさに断末魔だんまつまの声といった絶叫だった。


 茜はベッドの上で獣のように伏せたまま、息を殺して部屋のドアをじっと見つめている。悲鳴のあとにはもう何も聞こえてはこない。しかしこのまま目を閉じて寝直すことなどできるはずもなかった。悲鳴の主が引田や熊川だとしたら放ってはおけない。まさかとは思うが、あの全聾の男児、広都が叫んだ可能性もある。そしてさらにありえないが、妃倭子があの虚ろな喉から発したのかもしれない。この屋敷には茜の他にはその四名しかいない。聞き流してやり過ごすわけにはいかなかった。


 固まりきった体をゆっくり伸ばしてベッドから立ち上がり、狭い部屋を歩いて静かにドアを開ける。電灯が全て消えた屋敷内は真っ暗で、窓から入る月明かりだけが道標みちしるべのように廊下を照らしていた。辺りは蒸し暑く、濃い山の匂いが鼻腔びくうから体内に入り込む。エアコンで冷たく乾燥しきっていた部屋の中とは別世界だった。


 あの悲鳴はどこから聞こえて来たのだろう。二つ並んだ引田と熊川の部屋のドアは閉まったままで、中からは何の音も聞こえてこない。ノックするにも気が引けて、そろりそろりと通り抜けていく。足は絨毯に沈んで音も鳴らなかった。


 エントランスへと出ても誰の気配も感じられない。ただ静けさの中にざわざわと木々を通り抜ける風の声だけが途切れることなく響いていた。まるで自分以外の人間が消失してしまったかのような感覚。本当に、まだ夢を見続けているのではないかとさえ思えてきた。


 ダイニングとキッチンをそっと覗いてみるが、あまりに暗くてよく見えない。ただ目を凝らしても耳を澄ませても誰かがそこにいる気配は一切感じられなかった。電灯を付けてまで確認しようという気にはなれない。様子を窺うために来てみたが、何かを見つけてしまうことを恐れていた。


 エントランスへと戻ったあと、今度はためらいがちに屋敷の奥へと足を進める。ダイニングへ行ったのは自分の想像を信じたくなかったからだ。あの悲鳴を耳にした時から、それが引田や熊川や広都ではなく、妃倭子が発したものだと確信していた。引田は妃倭子が歩いたり声を上げたりすると話していた。夜のほうが元気になるとも言っていた。


 寝室前のリビングに入る手前で、二階へと向かう大きな階段の前で立ち止まる。見上げると階段は途中から暗がりに紛れて天井と区別が付かなくなっていた。この先には広都の部屋がある。広くて暗い屋敷も慣れていれば怖くもないのだろうか。聴覚を失った無音の世界に身を置く男児は母の声を聞くこともできない。


「栗谷さん」


 突然、闇の中から名前を呼ばれて、茜はその場で飛び上がるほど驚いた。リビングのある左側を振り向くと、灯りの付いた燭台を手にした熊川が遠くから訝しげな目をこちらに向けていた。


「あ、く、熊川さん……」


「何をしている、こんなところで」


 熊川はいつものように遅い足取りで近づいてくる。その様子が、まるでじわじわと追い詰めてくる屋敷の番人のように思えた。真っ黒なナイトウェアを着ているせいで白くて丸い顔だけがゆらゆらと宙に浮いているように見える。茜は声を出せないままその場に立ち尽くしていた。


「一体何の真似? どうしてここに?」


「い、いえ、その、目が覚めたので……」


「散歩? こんな時間に非常識と思わないの? 明日もあるんだから、さっさと部屋に戻って」


「散歩じゃありません。悲鳴が聞こえたんです」


「悲鳴?」


「それで気になって見に来たんです」


「電灯もつけず、燭台も持たずに、こそこそと?」


「電灯をつけると大事おおごとになるかと思って。燭台は、そんな習慣もなかったので、つい……」


 茜はうつむき加減でぼそぼそと返答する。正直に話しているのに自分でも言い訳じみている気がする。疑うような目付きで詰問きつもんする熊川の表情が怖かった。

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