第20話

「どうしたの? 茜ちゃん」


 引田が不思議そうな顔で声を掛けてくる。茜は顔を上げると小首を傾げて、とぼけた振りを見せて誤魔化した。


「茜ちゃん、お屋敷で今日一日過ごしてみてどうだった?」


「あ、はい。えっと……」


「初めてのことばかりだったと思うけど、このお屋敷での介護のこと分かってくれたかな? 何か気になることはあった?」


「気になることは……いえ、特には」


 茜はそう答えて愛想笑いを浮かべる。


「仕事の内容はお二人からしっかりと教えてもらえたので大丈夫です。慣れるまでにはもう少し時間がかかりそうですが……」


「難しくないから平気だよ。妃倭子さんとも上手く付き合えそう?」


「そう……ですね。穏やかで物静かな人なので、安心してお世話できそうです」


「良かった。茜ちゃんなら妃倭子さんともきっと仲良くなれるよ。頑張ろうね」


「ありがとうございます。よろしくお願いします」


 茜は小さくうなずいて応える。正直に言うと気になることや分からないことだらけの一日だったが、それを問いただしても引田から望むような答えは返って来ないだろう。彼女は妃倭子を敬い、この屋敷での仕事を気に入っている。それが介護ヘルパーとして正しい姿に違いない。自分もそのためにこの仕事を任されたのだ。


「言いたいことがあれば言えばいいのに」


 突然、熊川からナイフのように鋭い言葉が投げかけられる。細い目が射貫くようにこちらを見ていた。茜は言葉に詰まって静止する。熊川の真意が分からない。言えるものなら言ってみろと煽っているのか。わざと揉め事に発展させるつもりなのか。


「そうそう。光江ちゃんの言う通り、言いたいことがあったらじゃんじゃん話してね。せっかく一緒に住んでいるんだから、遠慮はいらないよ」


 引田は熊川の発言を受けて賛同する。茜は、はいと答えて再びうなずいたが、それ以上は何も言わなかった。


十五


 ふと気がつくと、茜は妃倭子の寝室に一人で佇んでいた。


 ロウソクの火が灯る燭台が辺りを取り囲み、淡い光をもたらし陰影を揺らしている。頭上に覆い被さる闇は重みを感じるほど暗く、顔を下げても自分の手元すらぼんやりしてよく見えなかった。


 空気はなぜか冷蔵庫のように冷たく渇き、じっとその場にとどこおっている。目が慣れてくると壁際の調度品の縁や足下の赤いカーペットの色がかすかに見えるようになり、やがて部屋全体の様子が認識できるようになった。


 豪華な天蓋の付いた大きなベッドが、正面の奥で存在感を放っていた。


 茜は細く静かな呼吸を繰り返しながら、ゆっくりと一歩ずつ足を進めていく。ブウゥーンというノイズ音が途切れることなく部屋にこだまし、頭に響いていた。


 いつの間にここへ来たのか? 何をしに来たのか? という考えが頭をぎることはなかった。当然のごとくここにいて、決まり切ったようにそこへと向かっていた。


 見えない視線が四方から感じられる。隅の闇溜やみだまりに獣が息を潜めてこちらを窺っている気がする。前方からも強烈な気配がカーテン越しに伝わってきた。顔は固まり、筋肉は強張り、肌は総毛立っているが、歩みを止めることはできない。ゆったりとしたひだの付いたカーテンがドレススカートのようにも見えて、まるで巨大な貴婦人に見下ろされている気持ちになった。


 天蓋の縁から何枚も吊された呪符じゅふのようなハエ取り紙を避けて、カーテンの切れ目に触れる。逃げることはできない。宮園妃倭子の介護がヘルパーである自分の役目だから。自ら望んでこの仕事を選び、この屋敷へ来たのだから。心臓が胸の内側から蹴りつけるように拍動はくどうしている。何度も目にした光景を思い返して、充分に覚悟を決めてから、すっとカーテンを引き開けた。


 ベッドの上には誰もいなかった。


「……妃倭子さん?」


 喉の奥からかすれた声が漏れる。意外な状況に直面して頭は混乱し、息は乱れ、体が震えた。妃倭子がいない。彼女はどこへ行った? いや、どこへ行ける? 寝たきりで体が固まり、頭にあの黒い布袋を被った姿で。


 ベッドの上には妃倭子の代わりに、背後から燭台の灯りを受けた茜の影が亡霊のように留まっている。先ほどまでカーテン越しに届いていた気配は、この自分自身の影だったのだろうか。今はもう何も感じない。正体が分かった自分の影に脅えるはずもなかった。


 その影が、二つに分かれた。


 ぞわっと、背中に触れる空気の感触が変わった。まるでアメーバのように分裂を始めた影。一方は茜の影だが、その肩の辺りから別の大きな頭部が突き出していた。体に異常が起きたわけではない。もう一つの影は、背後に立つ人物によるものだ。茜はんだ息を止めたまま、ぎこちない動作で首を回して振り返った。


 宮園妃倭子が、すぐ真後ろに立っていた。


「き、妃倭子さん……」


 茜は声を出せずに唇だけで呼びかける。頭から黒い布袋を被った背の高い妃倭子が、いつの間にか背後に現れていた。体の横で腕をだらりと垂らして、足を絨毯に沈ませている。ロウソクの灯りが後光となって彼女の体を縁取っていた。


 妃倭子は直立不動のまま見下ろすように立っている。茜も彼女の真似をするかのように、棒立ちになったまま動けない。頭の中が空虚になって、何も考えられない。強烈な腐敗臭が鼻を塞ぎ、ブウゥーンというノイズ音が次第に大きくなって耳を圧迫していた。


 妃倭子の首に付いた黒いリボンが、ひとりでに解けていく。


 ゆっくりと、頭の黒い布袋が手も触れないまま持ち上がり始めた。


 駄目です……やめてください、妃倭子さん!


 茜は首を小さく左右に振り、声にならない悲鳴を上げる。瞬きを忘れた目が涙に滲み、からからに渇いた喉から小刻みに息が漏れ続けた。妃倭子の介護を行う際に警告された三つのルール。素手で触れてはいけない。光を当ててはいけない。そして、顔を見てはいけない。その最も不可解で理不尽な謎が解かれようとしている。くすんだ青緑色の肌、生肉を求める土色の唇、黒い生地の縁が鼻の頂点に達する。


 剥ぎ取られた布袋が、音もなく床に落ちる。


 茜は限界まで開ききった目で、あらわになった妃倭子の顔を見てしまった。


十六


 次の瞬間、茜は暗闇の中で横たわったまま目を覚ました。


 何?


 瞬時には状況を把握できなかった。目の前には壁が迫っており、体の下には布団の感触がある。周囲にロウソクの灯りはなく、代わりに天井からオレンジ色の常夜灯じょうやとうが点灯している。そして妃倭子の姿は、その気配も含めてどこにも全く存在しなかった。

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