第19話

 茜はポケットからメモ帳を取り出すと平仮名で名前を書き、ページを破いて広都に差し出す。彼が顔を上げると自分の鼻を指差し微笑んでみせた。耳が聞こえないならこうやって名乗るしかない。

 広都は何の反応も示さずにじっとこちらを見つめている。メモ紙をさらに押しやると、ようやく理解してそれをズボンのポケットに収めた。そして隣席の引田が彼にうなずくと、再び顔を下げて食事に戻った。


「まだ小さいのに大変ですね……広都君の世話はどなたがされているんですか?」


「世話ってほどじゃなけど、一応私たちが面倒を見ているよ」


「……他にご家族やお身内の方はおられないんですか?」


「だってママの妃倭子さんがあんな状態じゃない」


「いえ、妃倭子さんはそうですけど、お父さんや身内の方は……」


「パパもいないみたいだねぇ。お屋敷には私たちと妃倭子さんと広都君しかいないよ」


「はぁ、そうなんですか……」


 茜は男児を取り巻く奇妙な環境に戸惑う。母子の二人暮らしと言っても、母親は黒袋を被った寝たきり状態の妃倭子だ。まともな世話などできるはずもなかった。

 父親は一体どこへ消えたの? まさか二人を捨てて逃げたの? 他の身内はそれも承知で母子をこの屋敷に隔離したの? 疑問は尽きないが引田も詳しいことは知らないようだ。


「引田さん、冷めるから早く食べて」


 隣から熊川が催促さいそくする。それに合わせて茜も話を止めて食事を始めた。熊川とは午後の言い争いから不穏な関係になっていたが、夕食を出さないような意地悪はされなかった。


「うん、今日も美味しいよ、光江ちゃん」


 引田は食事中も話を止める様子はない。


「茜ちゃん、気づいた? 光江ちゃんって、ピザもパスタも生地から作っているんだよ」


「へぇ、生地からだなんて大変じゃないんですか?」


「そりゃ大変だよ。パンだってオーブンを使って焼いてくれているんだよ」


「パンもですか? それは凄いです」


「別に。どうせ全部小麦粉だから」


 熊川は相変わらず話の腰を折るような態度で返答する。引田は顔の前で激しく手を振った。


「だから凄いんじゃない。私なんていつも麓のスーパーで買ってくるだけでしょ? 比べものにならないよ」


「スーパーで買ってきたほうが早くて美味しいから」


「またまた謙遜けんそんしちゃって。パンもパスタも光江ちゃんが作ったほうが美味しいに決まっているじゃない。ねぇ茜ちゃん」


「はい、私もそう思います。サラダもスープもお店で食べているみたいです」


「でしょでしょ。だから私、お屋敷の食事はみんな光江ちゃんがしてくれたらいいと思うんだけど」


「毎日は嫌。当番制だから引田さんも、栗谷さんも作って」


「……だって。負けないように頑張ろうね、茜ちゃん」


 引田はそう言って闊達かったつに笑う。茜も釣られて小さな笑い声を上げる。熊川は目を伏せてスプーンでスープをすくっていた。熊川は妃倭子の介護を忌み嫌い、あからさまに暴力的だが、料理に関しては真似できないほど手間をかけて作り込んでいる。現状の不満を料理という趣味で発散させているのだろうか? 料理人だった前職にまだ未練を抱き続けているとしたら、彼女の態度や行動も納得できるような気がした。


 茜は妃倭子の入浴介助での出来事を引田に伝えていない。熊川が要介護者を粗雑に扱い侮蔑していたことも、浴槽の排水口から異様な髪の毛の束を見つけたことも報告していない。それはまだ新人だからという負い目もあったが、何よりもこの閉鎖された空間での雰囲気を乱すことに踏みきれなかったのも理由だった。

 病院に勤めていた頃から、告げ口や悪口や噂話で組織やチームの関係性が悪くなるのを何度も経験している。女性の多い看護師たちの間では特にその傾向が強く、業務に悪影響を及ぼして病院全体の深刻な問題に発展することも知っていた。引田はこの屋敷内のリーダーであり、バランサーであり、信頼できる常識人だ。不満を訴えるにも彼女の負担にならないよう慎重にすべきだった。


 がぁー、というカラスの鳴き声のような濁った音がダイニングに響く。


「あら、広都君、もうごちそうさま?」


 引田が声を掛けると広都はうなずきながら席を立つ。先ほどの声は彼の喉から出た音のようだ。


「じゃあ歯磨きしておやすみなさいだね。ママももう眠っているから邪魔しちゃ駄目だよ」


 続けて片手を上げて歯を磨くジェスチャーを見せる。広都は再びうなずいてからダイニングから立ち去った。


「……広都君はどこで寝ているんですか?」


「二階にお部屋があるんだよ。茜ちゃんはまだ行っていなかったよね? 明日、お掃除する時に上がってみるといいよ」


「はぁ……私も何か、あの子の世話をできることはありますか?」


「そうだねぇ。一応は気に掛けておいてほしいけど、そこまで目を配っておくこともないと思うよ」


 引田はパスタをフォークに巻いて口に入れつつ答える。


「……放っておいても一人で寝られるし、朝もちゃんと起きてくるからね。耳と口は不自由だけど、平仮名と片仮名は読めるから筆談もできるんだよ。何か言いたいことがあったら寄ってくるけど、あまりそういうこともないかなぁ。手間がかからなくて本当に助かるよ」


「普段は二階の部屋にいるんですか?」


「大体はそうだね。本を読んだりお絵描きしたり。今日はお外で遊んでいたみたいだけど」


「外? 危なくないんですか?」


「森へは入らないよ。お屋敷の庭で虫取りでもしているんじゃない?」


「あ……」


 引田の話を聞いて茜ははたと気がついた。今日の昼、この屋敷を初めて訪れた際にふと見かけた影は、たぶんイノシシではなく広都の姿だった。庭で一人遊びをしていたあの子が、やって来た自動車を見かけて顔を出したのだ。すぐに姿をくらましたのは見たことのない茜がそこにいたからだろう。


 控えめに食べ散らかされた食器をテーブルに残して、広都はダイニングを出て屋敷のどこかへ消え去った。引田は利口で手間のかからない子と褒めているが、茜はその大人しさが不自然に感じてならなかった。

 少なくとも六年前まで、妃倭子は妊娠して出産できる体だった。その後に彼女は難病に冒されて、今のように黒袋を被ったほぼ寝たきりの状態になってしまった。広都は母親のそんな変わりゆく様を見続けてきたのではないだろうか。そしてこの人里離れた広い屋敷で、派遣された見知らぬヘルパーたちの世話を受けて、全く音の聞こえない中で育ってきたとしたら、男児の人格形成にどのような影響を及ぼしたかなど想像も付かなかった。

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