第18話

「熊川さん、ちゃんと妃倭子さんの姿勢を整えておかないと駄目です」


「何で?」


「何でって……妃倭子さんはほとんど動けないんですよ。体が歪んだままだと骨や関節を傷めてしまいます」


「看護師からのご指摘ってこと?」


「そんなつもりはありません」


「体が歪んだならまた戻せばいい」


「よ、良くないです。妃倭子さんが痛いじゃないですか」


「痛い?」


 熊川は冷めた目で妃倭子を見下ろすと、左手の指を伸ばして動かない彼女の手の甲をつねった。


「誰が痛いって?」


「熊川さん……」


「どこも動かないし、何も考えていない。目も見えないし、耳も聞こえない。痛くもないし、苦しくもない。この人はもう、ただ生肉を食べて出すだけの女だから。ゾンビと一緒」


「止めてください!」


 茜は熊川の左手首を掴んで引き離す。もう先輩も後輩も関係ない。それは言ってはいけないことであり、やってはいけないことだった。


「こ、これ以上妃倭子さんを傷付けたら、引田さんと高砂さんに報告しますよ」


「……本気で言ってるの?」


「あ、当たり前です。新人だからって馬鹿にしないでください」


 茜は熊川を睨み付けて訴える。熊川は顔色も変えずに細い目でじっと見返してた。


 やはり熊川はまともではない。初めは看護師上がりの新人へのやっかみで、わざと冷たい態度を取っているのかと思っていた。しかし攻撃対象が要介護者の妃倭子にまで及んでいると気づいて、その異常性に確信を得た。彼女は妃倭子を憎んでいる。どういう理由かは知らないが、あるいは仕事とはいえ山奥に住み込んで介護をさせられているこの状況そのものが理由なのかも知れないが、親身になって妃倭子を介護しようという気持ちもなければ、与えられた職務を遂行しようという意識もなかった。


 その時、リビングと繋がる寝室のドアがガチャリと開く音が聞こえた。


 茜は熊川から目を逸らして音のほうを振り返る。いずれにせよ、ここで熊川と言い争いの喧嘩などすべきではない。まあまあ、二人ともどうしたの? と引田が陽気な口調で仲裁に入ってくれるのを期待していた。わずかに開いたドアの隙間から、一条の光が暗闇の寝室に眩しく差し込んでいる。しかし賑やかな彼女の声は聞こえてはこない。


 逆光の前には、一人の小さな男の子が佇んでいた。


「……誰?」


 茜は思わず小声で問いかける。どこから現れたのか、白い半袖のシャツと黒い半ズボンを着た、八歳くらいの男子がじっとこちらを見つめていた。広い額に色白の肌、感情の窺えない表情と微動だにしない様子が人形のようにも見えるが、もちろんそんなはずがない。この山奥では近所に住む子が紛れ込んだとも思えなかった。


「何か用? 広都ひろと君」


 後ろから熊川が静かな声で尋ねる。茜は驚きながら首を回して二人を交互に見た。


「広都君?」


「……高砂さんから聞いてない? 屋敷の子供のこと」


「き、聞いてません。この子もお屋敷に住んでいるんですか?」


「妃倭子さんの息子だから」


「息子……」


 茜は目を丸くさせて広都と呼ばれた子を見つめる。男の子はわずかに眉を寄せた怪訝けげんそうな顔を見せてから、背を向けて走り去った。


十四


 午後七時を過ぎると屋敷は夜の闇に包まれた。麓ではまだ黄昏たそがれの時刻だが、四方を深い森に囲まれているここでは、傾いた日が高い木々の裏に隠れると途端に暗くなってしまうようだ。ということは、朝日が届くのも随分と遅くなるのだろう。つまりここでは夜がとても長く続くはずだった。


 入浴介助のしばらく後、茜は妃倭子に夕食を摂らせるために再び引田とともに寝室を訪れた。介助の方法も食事の内容も昼食と全く変わりなく、例のクスコ式膣鏡、ステンレス製の漏斗を妃倭子の喉に挿し込んで生肉のスープをゆっくりと流し入れた。二度目なので取り乱すこともなく、にこやかな笑顔を見せる引田に合わせて愛想笑いを固めて介護に務めることもできた。しかし妃倭子からはやはり一切反応はなかった。


 妃倭子の食事介助を終えると今度はヘルパーたちの夕食となる。昼食と同じくダイニングへおもむくと、熊川が既に配膳を済ませていた。ペパロニとチーズのピザ、バジルを使った緑色のジェノベーゼパスタ、それにサラダとスープとパンが並んでいる。食卓では先に男の子が席に着いて切り分けられたピザにかじり付いていた。


「そっか、茜ちゃんは知らなかったんだね、広都君のこと」


 皆で食事を始めるなり、広都の隣に着席した引田が話を始める。


「お昼ご飯の時は私たちがちょっと遅かったから会わなかったね。妃倭子さんの息子さんの宮園広都君。六歳の男の子だよ」


「息子さんが、おられたんですね」


 六歳ということはまだ就学以前の子供だろうか。もう少し年上に思えたのは、恐らくその物静かさにあった。黙々と食事を続ける様子はつたないながらも落ち着きがあり、世間の子供のような移り気も見られない。酷く引っ込み思案の性格なのか、そのように教育されているのか、少年の口からはまだ一言も声が聞こえて来なかった。


「こんにちは広都君。今日からお屋敷に来た栗谷茜です。よろしくね」


 向かいの席から茜は笑顔を見せて挨拶するが、広都は皿から顔を上げようともしない。食事に夢中で返事もできないのか。対応に迷って引田を見ると、彼女は小さく首を振った。


「広都君、耳が聞こえないんだよ」


「え、耳が?」


 引田が広都の前でテーブルをトントン叩く。すると男の子は顔を上げて引田に目を向け、続けて彼女が指し示した茜のほうを振り向いた。


「広都君、今日からお屋敷に来てくれた茜ちゃんだよ」


「あ……えっと、栗谷茜です。よろしくね、広都君」


 茜は先ほどよりも声を上げてゆっくりと挨拶する。広都はやや目尻の下がった眼差しを向けたまま、じっと固まって瞬きを繰り返していた。肌はゆで卵のように白くきめ細やかだが、眉間や口元に入った皺からは老人のような頑なさと思慮深さが窺えた。


「……耳が聞こえないんですね。大声で話しても?」


「駄目みたい。生まれつき両耳とも全く聞こえないんだって」


「そんな……」


「でもとってもお利口りこうさんでいい子だよ。好き嫌いもないしね」


 引田は気楽な調子で語るが、茜はさすがに笑顔にはなれない。先天性のものか、生まれてから重い病気を患ったのかは分からないが、たった六歳で両耳全ろうとなると、特別に訓練しないと満足に言葉を発することもできないだろう。広都が年齢の割に大人しく見える理由もそのせいか。子供らしさの大半は年相応としそうおうの騒がしさにあるからだ。

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