第17話

「栗谷さん、あとは任せるから」


 熊川はうつむいて介助を続ける茜に向かって声をかける。改めて顔を上げると、彼女は見慣れた無表情のまま妃倭子が被る黒袋を元に戻していた。


「全身洗い終わったら、お風呂の栓を抜いてお湯を捨てて、その後シャワーで洗い流して。そこまで済んだら呼んで。またストレッチャーで運んでベッドに戻すから」


「はい……熊川さんは?」


「ちょっと休憩してくる。ここのお風呂場、暑くてやってられない」


 熊川は悪びれもせずに返す。茜は少し呆気に取られたが、何も言わずにうなずいた。肥満体型なので特に暑さを感じて疲れやすいのだろう。先ほど見た恐い表情は暑苦しくてうんざりしていたのかもしれない。


「それじゃ、よろしく」


「あ、熊川さん。妃倭子さんの頭も洗っていいんでしょうか?」


「袋は取るな!」


 突然、熊川は弾けたように声を荒らげる。茜は息を呑んでスポンジを持つ手を止めた。


「あ、あの……」


「妃倭子さんの頭の袋を取るのは禁止。引田さんから聞かなかった?」


「い、いえ。聞いていました。顔を見ちゃいけないって」


「取るなって言われていたのに、どうしてそんなこと聞くの?」


「その、髪やお顔も洗ったほうがいいのかと思って……」


「袋を取らずにどうやって洗うつもり? 髪も顔も放っておけばいい。あなたは言われた通りにやって」


「は、はい、そうですね……すいません」


 茜は頭を下げて謝罪する。熊川はしばらく疑うような目付きで見下ろしていたが、やがて何も言わずに浴室から立ち去った。気軽に尋ねたつもりだったが、そこまで激昂げっこうされるとは思わなかった。反論する前に驚き恐怖で口が利けなくなってしまった。


十三


 茜は動悸を落ち着かせるためにスポンジを動かして妃倭子の体を洗う。寝室から出ることもなく、週に三回の入浴介助を受けているにもかかわらず、お湯は泥水のように濁り、ヘドロのような生臭い汚物が浮かんでいた。黒い袋に包まれた頭部は上を向いて、暗闇に覆われた天井を見上げている。一体あの中はどうなっているの? 本当に光が苦手という理由だけで隠されているの? 引田と熊川は一度も覗いたことがないの。湯気を帯びたシルクの生地が顔に貼り付いているが、彼女は息苦しそうな素振りも見せない。


「……妃倭子さんは、私の声が聞こえているのですか?」


 自問自答するような声がお湯の音に流れていく。妃倭子からの返事はない。五秒、十秒、三十秒待っても唸り声一つ聞こえては来なかった。


 首元までまんべんなく洗い終えたところで、浴槽の栓を抜いてお湯を排出する。サウナのような浴室での介助は想像していたよりも重労働で、茜は汗と湯気で全身がずぶ濡れになっていた。新人だからといってこんな仕事を自分一人に押し付けた熊川に腹が立つ。恐らく引田と二人で入浴介助を行ってた時は休憩など取っていなかっただろう。


 シャワーからお湯を出して妃倭子の肩口から残った汚れを落としていく。しかし栓を抜いているにもかかわらず排水される量が少ないのか、浴槽の水位が再び上昇しつつあることに気づいた。何かが詰まっているのだろうか。茜は腕をまくって濁ったお湯の中に手を差し込んで浴槽の底を探る。


 何か繊維状の塊が指先に触れて、茜は思わず手を引いた。


 今のは何? 覚えのない不思議な感触に戸惑う。確かなことは分からないが、濡れたハンカチや靴下のような手触りだった気がする。妃倭子か熊川の持ち物だろうか。それが浮かばずに沈んでいるということは、一部が排水口に吸い込まれて栓の代わりになってしまったのだろう。


 茜は改めて浴槽に手を入れて、慎重にその塊に触れる。やはり判然としないが昆虫や汚物とは思えず、まさかネズミの死骸というわけでもなさそうだ。そこまで確信してから塊をしっかり掴んで引き上げた。予想通り、お湯は排水口からごぼごぼと勢いよく流れ始める。


 掴んでいたのは、長く茶色い髪の束だった。


 ぞわっと背筋に冷たいものが通り抜けて反射的に手を振り払う。べちゃりと、湿った音を立てて髪の束が足下の床に落ちた。それでも指先や手首に数本巻き付いていたので何度も振って落とし、さらに出しっ放しのシャワーで洗い流した。


 どうしてこんな物が? いつから浴槽に沈んでいたの? 髪は一本や十本ではなく、片手で掴んだ一房ほどもある。長さから見ても明らかに人間の頭髪だった。


 誰かの頭から抜け落ちたのか。しかし屋敷には引田と熊川しかおらず、後はたまに高砂が訪れる程度ではないだろうか。三人の頭に脱毛した跡など見つけていない。それでは誰かがこの浴室で髪を切ったのか? この広い屋敷の中で、わざわざヘルパーが要介護者の浴室で散髪するだろうか? いや、そもそも三人とも髪は黒く、この髪のように茶色に染めるか脱色した者もいないはずだった。


 茜は目線を動かして、黒袋を被った妃倭子の頭部を見つめる。まさかこれは、妃倭子の髪なのだろうか。熊川が彼女の歯を磨くために、首元のリボンを緩めて袋を口元まで引き上げた際にお湯の中に落ちたのだろうか。そう想像するのが自然だが、そうなるとこの髪の束は妃倭子の頭からごっそりと抜け落ちたことになる。一体なぜ? 考えれば考えるほど頭は混乱し、恐怖に近い不安に駆られて焦りを覚えていた。


 負の感情を洗い流すように妃倭子の体をシャワーで清めた後、熊川を呼んで二人でストレッチャーに乗せる。彼女は相変わらず不機嫌そうな顔のまま黙って介助に当たっていた。不気味な頭髪は既に茜が拾い上げてゴミ箱に捨てている。妃倭子さんの髪でしょうか? と尋ねたかったが、それがどうした、余計なことをするなと叱られそうで気が引けた。黒袋を取って顔を見たと誤解されそうなのも嫌だった。


 化粧室で妃倭子の体をバスタオルで丁寧にぬぐった後、洗った下着とローブに着替えさせる。ローブは今まで身に着けていた物と全く変わらない赤色だった。寝室へと運んで再びベッドに横たわらせるが、熊川はもう持ち上げようともせずに妃倭子をストレッチャーからベッドへと転がした。


「じゃ、これで終わりだから」


「え……でも、ちょっと待ってください」


 見かねた茜が妃倭子の足を伸ばして腰や肩の位置を整える。いくら何でも乱暴過ぎる。まるでゴミでも捨てるかのような熊川の振る舞いはさすがに我慢できなかった。


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