第16話
十二
茜は入浴介助用の防水エプロンを身に着けると、午後四時前に部屋を出て熊川とともに妃倭子の寝室へ向かった。浴室はヘルパーたちが使用する場所とは別に、寝室と直結した隣室に設けられている。必要となるタオルや着替えもそこにストックされているとのことだった。
「夏場の入浴は月・水・金の週三回。今までは引田さんと一緒に介助していたけど、これからは交代か、手の空いている二人が担当することになると思う」
「分かりました」
「今日は私が全部指示を出すから、栗谷さんは言われた通りにやって」
熊川は気怠そうな足取りでゆっくりと歩きながら、冷めた口調でぼそぼそと話す。その陰気さは物寂しい屋敷の雰囲気には馴染んでいるが、介護ヘルパーとしては褒められた態度ではないだろう。彼女がこの屋敷で働いているのも、住み込みゆえの人手不足によるものかもしれない。
マスクとゴム手袋を着けると、忘れかけていた緊張感が蘇って身が引き締まる。この感覚は医師の助手として手術室へと入る瞬間と似ている気がした。燭台を手にした熊川に続いて寝室に足を踏み入れると、実際に空気が異質に変化したのを感じる。閉めきった室内には例の血と汚物を混ぜた腐敗臭が充満していた。
「先にお風呂にお湯を張って浴室を温めておくから」
部屋の燭台に火を灯して回った後、熊川は寝室を横切って右手奥の部屋へと向かう。中央のベッドは天蓋から下がったカーテンが閉まったままになっていた。物音一つ聞こえてこないが、あの中では妃倭子が昼間に見た時のままでいるのだろうか。茜は見えない主に見張られているような気がして軽く会釈をして通り過ぎた。
ドアを開けた隣の部屋も真っ暗なので熊川は四隅の燭台に火を灯す。洗面台とトイレと衣類や小物を収納するストッカーが見えて広い化粧室だと分かった。中央には入浴介助に使う移動式のベッド、ストレッチャーが置かれている。その向こうにはベージュ色のタイルが貼られた浴室があり、大人一人が横になって入れる大きさの浴槽が設けられていた。
むっとした湿り気と水の匂いがマスク越しに伝わってくる。窓はあるようだが換気は行き届いておらず、古い空気が室内に滞っていた。掃除はされているが年月の劣化により床のタイルにはヒビが入り、壁にも傷や穴が目立っている。その隙間からは闇が漏れるように黒カビが繁殖していた。
熊川は浴槽にお湯を溜め始めると、ストレッチャーを押して寝室へと戻る。茜は指示されるままに先回りしてベッドのカーテンを開いた。妃倭子は黒い袋を被って仰向けになったまま静止している。茜たちが姿を現してもやはり何の反応も示さなかった。
「ストレッチャーに乗せるから、腰を抱えて」
熊川はそう命令して妃倭子の頭側へと向かうと、妃倭子の横側から肩と背中の下に両腕を差し込み持ち上げようとする。茜は慌てて隣に付くと、同じように妃倭子の尻と膝の間に腕を差し込んだ。ぐっしょりと濡れた感触が赤いローブ越しに伝わる。失禁しているのだろうか。体は外気温よりも冷たくて、大木のように重い。意識のある人間は自分で重心を移動させてバランスを取ろうとするので、実際の体重より軽く持ち上げられる。やけに重く感じられるのは麻酔などで昏睡状態にある者か、自らの意思で体を動かせない寝たきり状態の者か、死体だった。
「早く運んで」
熊川は吐き捨てるように言って茜を急かす。慣れない作業にもたつきながら妃倭子をストレッチャーに寝かせると、熊川は無遠慮に服を脱がせ始めた。気がつけば彼女は未だに一言も妃倭子に話しかけていない。どうせ反応がないのだから無意味だと考えているのかもしれないが、引田と比べて随分と乱暴な扱いに思えた。
脱がせたローブを化粧室の洗濯籠に入れて、妃倭子を乗せたストレッチャーはそのまま浴室へと運び込まれる。お湯が溜まった浴槽からは湯気が立ちのぼり、水を避けるためにフードを被せられたロウソクの灯りが室内をぼんやりと照らしていた。
「お湯に入れるから、持って」
言われるままに妃倭子を再び抱え上げて浴槽に入れる。浴槽は介護用の底が浅い形状になっているので、入れやすく、出しやすく、頭が沈んで溺れる心配もない。白い
「このまま私は歯磨きをさせるから、栗谷さんは足の方からスポンジで体を擦って汚れを落として」
「は、はい。分かりました」
茜は浴室の隅に置かれたバスラックから腐った脳のような海綿のスポンジを拾い上げる。石鹸やボディソープで洗うようなこともしないらしい。妃倭子の足を取って慎重な手つきで指先から擦り始めた。お湯に浸かっているお陰でようやく温もりを帯びるようになったが、青緑がかった両生類のような肌の色からは人間らしさが感じられない。少しむくんだ感触もあり、全身が酷い血行不良に陥っているようにも思えた。
熊川は妃倭子の黒袋を口元まで引き上げると、化粧室にあった歯ブラシを使って乱暴に口内を磨いている。喉に直接生肉を流し込む食事を行っているが、口腔内のケアは定期的に行うほうが良い。何も噛まなくても虫歯になることもあり、意思疎通が困難な者ほど重症化する危険があるからだ。
誰も何も言葉を発しないまま、清掃作業のような入浴介助が続けられる。ふと見ると熊川は眉間に皺を寄せて、睨むような目付きで妃倭子の歯を磨いていた。これまでも愛想がなくぶっきらぼうな態度ではあったが、その顔は常に無表情で何を考えているのか分からないところがあった。それが今は、まるで憎しみを籠めてナイフで滅多刺しにするかのように歯ブラシを動かしていた。
茜は思わず顔を伏せて何も見なかったふりをする。一体どうしたのか? 彼女のことがますます分からなくなってきた。
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