第15話

 トランクの中身をあらかたさらったところで、サイドポケットの底から見慣れない小物が一つ入っていることに気がついた。何だろう。キーホルダーのようだが入れた覚えはない。自宅の鍵でもなければ自転車の鍵でもないが、他に思いつく鍵もない。ということは、誰かにもらったどこかのお土産か、自分で買って忘れていた小物か、不思議に思って何気なく取り出してみた。


 その瞬間、茜の表情が強張った。


「……あなた、こんなところに入っていたの?」


 思わず零れた自分の声にも胸を衝かれた。


 ピンク色のハートマークの中に柔らかなタッチで描かれた女性と赤子のイラスト。さらに手書き風の拙い文字で書かれた【おなかに赤ちゃんがいます】の言葉。


 それは去年に買った雑誌の付録に入っていた、マタニティマークのキーホルダーだった。


十一


 ほぼ一年前となる去年の八月、茜は第一子を流産で亡くしていた。


 妊娠三か月、十二周目に入る直前の稽留けいりゅう流産……腹痛も出血もないままに、勤務先とは別の病院で胎児の死が確認された。


 理由は考えても仕方がない。日常生活に無理があったのか、ストレスがあったのか定かではない。早期の流産は母体ではなく胎児の染色体異常によるものが多く、そもそも育つことはできなかったとも言われた。


 昔は七歳までは神様のものだから、死んでも母親のせいではないとされていた。今はさすがにそこまで無責任ではいられないが、それでも妊娠十二週目までの流産は厚生労働省も死産とすら定めていない。役所に死亡届を提出する義務もなく、つまりはこの社会に存在した人間の死とは認められていなかった。それは同時に、茜も母親と見なされないことを意味していた。


 ようやく人間の形になりかけていた、握り拳程度の胎児は、茜に痛みも後遺症も与えず、罪の意識も母親としての自覚も抱かせることなく子宮から去って行った。巡り合わせが悪かったと思うしかない。もう少し幻想的に言うと、天使が一休みして帰って行っただけなのだろう。そう納得するまでに半年ほどかかった。


 生まれなかった子供の父親は、同じ病院に勤務する外科医の男だった。


 どうしてそんな関係になったのかは、今さら振り返ったところで仕方がない。突き詰めるとお互いに魔が差したとしか言いようがなかった。妊娠が発覚した時にはもう、男は側にはいなかった。病院内にはいるが茜には近寄らなくなっていた。


 流産の後、何週間も経ってからようやく男と連絡を取った。人の目を避けて線路の高架下で落ち合って立ち話で全てを告げた。何か目的があったわけではない。父親になるはずだった男にも伝えておくべきだと思ったからだ。そして出生届も死産届もないが、確かに我が子が存在したという思いを共有しておきたかったからだ。


 男は自分を捨てたことを責められると思っていたらしく、何か言い訳を考えていたらしい。しかしそれを聞く前に茜から妊娠と流産を報告すると、彼はいきなりその場で土下座をした。年齢も立場も遥かに上の男が汚い地面に頭を擦りつける姿を見て、驚くとともに気持ちが揺らいだ。今まで何も報告しなかったのは自分のほうで、流産の責任を押し付けるつもりもない。謝罪を受けるいわれもないと思っていたからだ。


 しかし、そうではなかった。


 男には既に妻子がいたのだ。


 ああ、そういうことだったのかと、道端に転がる石塊いしくれのように体を丸めた男を見下ろして納得した。あれ以来自分を避けるようになったのも、そういう理由があったからだと分かった。そしてこの土下座も、妊娠させてしまった茜への謝罪でもなければ、顔も見ない内に死んだ我が子への弔いでもない。ただこの事実を世間に広めないでくれという懇願に違いなかった。


 男の真意に気づいた茜は、何もかもが虚しく思えてその場から立ち去った。彼の不誠実を責めることもなく、身勝手な要求に理解を示すこともなかった。自ら呼び出しておきながら、今すぐ男の前から離れたくてたまらなかった。紛れもなく事態の当事者でありながら、その立場に据えられることが耐えられなかった。


 なぜ黙ったままでいたのか、なぜ泣き寝入りをしたのか、そう思う人もいるかもしれない。もし茜も友達から同じ話を聞いたら、きっとそう憤っただろう。あなただけ辛い思いをするのは間違っている。そんな男のことなど病院内に言い触らして評判を落としてやればいい。妻子にも告げ口して家庭崩壊へ追い込めばいい。せめて通院費は支払わせろ。いっそ裁判を起こして公然に慰謝料を請求すべきだ。なぜ復讐しないのかと説得しただろう。


 しかし結局、茜は何も行動を起こさなかった。これ以上男と関わる気になれず、世間を騒がす気も起きず、何事もなかったことにしようと思った。数少ない友達にも不満を訴えず、親にも相談しなかった。当時の茜には揉め事を起こすだけの気力も体力もなく、その上孤独だった。そして何より、生まれることすらできなかったあの子を盾に訴えたり、他人の同情を引いたりしたくなかった。


 茜の望みは誰も何も知らないまま元の環境に戻ることだった。だが次第と周囲の看護師や職員たちの態度がよそよそしくなり、避けられるようになっていった。孤独というのは周囲に事実を伝えずに済む一方で、周囲の変化にも気づきにくい弱点がある。いつの間にか看護師たちの間で、茜が外科医の男の子供を妊娠して流産したという、事実と寸分違わない噂話が広まっていた。


 あの男が同僚の医師や看護師に相談したのが伝わったのか、それとも二人の関係を見抜いた誰かが推理を働かせて噂話を作ったのか、本当のところは最後まで分からなかった。ただ茜が肯定も否定もしなかったために、事実の噂話がまことしやかに広まるという最悪の事態になってしまった。今さら本当のことだと公言する気にもなれない。だが違うと嘘を吐くのも、我が子の存在を自ら否定するように思えて絶対にできなかった。それで結局、茜は病院を辞めて転職を望むようになった。


 これも世間に言わせれば愚かな逃亡と思われるかもしれない。しかし茜の心身は、もうそれ以外の手段は思いつけないほど疲弊し追い込まれていた。体調も崩しがちになり、今すぐにでも仕事を辞めないと過労で死ぬか自殺を選んでしまうとすら考えるようになった。直属の上司にあたる看護師長からは慣例的に引き留められたが、それで決心が揺らぐはずもなかった。さらに上の看護部長からは、あらそう分かったわと事務的に返された。昨年末に最後の仕事を終えると、そのまま普段通りの態度で病院から立ち去った。同僚の大半は、年が明けてから辞めたことに気づいただろう。


「いつの間に入っていたんだろう……そんなに一緒にいたかったのかな?」


 茜は呆れたような笑みを浮かべてマタニティマークのキーホルダーに話しかけた。そして再びトランクのサイドポケットに戻すと、ぽんぽんとポケット越しに二度優しく叩いた。全てが終わった今となっては悲しみもなく、むしろ愛着のようなものを感じている。思いあまって捨てるようなことがなくて良かった。一度も身に着けることのなかったキーホルダーは、皮肉にもあの子の存在を証明する唯一の遺品となっていた。

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