第13話

「そうだねぇ。あんまり動かないけど、たまに声を上げたり歩いたりされているね」


「歩く? 妃倭子さんは歩行できるんですか? でも今は……」


「今は茜ちゃんがいるから緊張されているのかもね。夜のほうがお元気みたい。歩くと言っても何も見えないから動き回ることはできないけどね。朝、ご挨拶に行くとベッドから落ちていることもあるんだよ」


 本当だろうか。完全に寝たきりではないかもしれないと疑っていたが、まさか立って歩けるとは、今の姿からは想像もつかない。いや、想像するのが恐ろしかった。


 ボウルの中身が全てなくなると、再び引田と協力して妃倭子をベッドに寝かせる。どこから湧き出したのか、数匹のハエがボウルの底に残った肉汁に群がっていた。


「それじゃ妃倭子さん。お昼ご飯が終わりましたので私たちはこれで失礼します。この次はお風呂ですよ。また後ほどお伺いしますねぇ」


 引田は妃倭子が被っている黒袋を元に戻すと、深々と頭を下げてからカートを押してベッドを離れる。茜はただ黙ってぺこりとお辞儀をして逃げるように引田のあとを追った。来た時とは逆方向に寝室を巡り歩いてロウソクの火を消していく。視界が再び闇に没するのを確認すると、ドアを開けてリビングへと出た。


「はぁい、茜ちゃんもお疲れさまでした。やり方、覚えられたかな?」


 寝室のドアを閉めるなり引田はリラックスした口調で話しかけてくる。茜は気持ちを切り替えられないまま、今まで言い出せなかった言葉が喉の奥で交通渋滞を起こしていた。


「あ、あの、引田さん」


「ああ、心配しなくても大丈夫だよ。妃倭子さんのお世話は二人一組ですることになっているから。茜ちゃんが担当する時も私か光江ちゃんが必ず付くからね」


「そうではなくて……良いんですか? これで」


「え、これって?」


「ですから、その……妃倭子さんに対してあのような接し方は、も、問題あるんじゃないでしょうか?」


 虐待、という言葉が頭をよぎる。

 認知症患者や精神障害者、身体障害者に対する虐待は介護の現場でもたびたび問題になっている。その中には過度の拘束や、無理矢理食事を口に詰め込むような行為も含まれているはずだった。


「うん、ちょっと可哀想だよねぇ」


 引田も賛同するようにうなずく。


「私も妃倭子さんとお喋りしたり、お散歩したりしたいけど、さっき話した通り、今あの人はそういうことができない体になっているの。お庭をお花畑にしても眺められないし、もしかすると、そういうことすらも分からないのかもしれない。だけど、せっかく住み込みで働かせてもらっているんだから、そういった素敵な環境作りに取り組むのも悪いことじゃないと私は思うんだよ」


「いえ、お花のことはいいと思いますけど、あの食事介助は……」


「だって一人じゃ食べられないんだもの。口も動かさないから噛むこともできないし。ああやって食べさせてあげたらちゃんと飲み込んでくれるんだよ。何も食べないと死んじゃうからね」


 口から食物を摂取できない、飲み込むことのできない患者に対しては、鼻からチューブを通して胃へと栄養を送る経鼻けいび経管けいかん栄養や、静脈から点滴で栄養を送る経静脈栄養、あるいは腹部から胃や小腸に穴を開けて直接チューブを通して栄養を送る胃ろうや腸瘻などの措置がある。

 いずれも有効な手段ではあるが、患者の動作は制限を受けることになり、事故や感染症のリスクも増えてしまう。どんな方法であっても口と喉を使って食事ができるならそれに超したことはなかった。


「ですが、こんなのは……」


「大丈夫だよ。私たちはこの方法でずっと続けて来たからね。妃倭子さんのご病気も落ち着いているし、重大な事故も起きていないから、このやり方がベストなんだよ」


 引田は茜の不安を取り除くかのように自信を持って語る。現場は綺麗事では済まされない。昼食を準備したのは熊川であり、社長の母親である高砂も先に妃倭子と面会している。引田個人の判断ではなく、いわば公認の対応に違いなかった。


「もちろんご身内の方にもご理解いただいているから、今まで苦情が来たことなんて一度もないよ。妃倭子さんは私たちの大切なお客さまで、この介護方法は会社で決まっていることだからね」


「はい……そうですね」


「茜ちゃん、分かってね。ヘルパーは決められた手順に従って動くだけ。正しいか正しくないかは私たちが決めることじゃないんだよ」


 引田の言葉に茜はうなずくことしかできなかった。



 人は見た目だけでは判断できない。


 恋愛の場では知らないが、病院では確実にそう言えた。


 一見すると健康そうに見えていても、検査すればガンや成人病などの病気が、知らないままに進行している場合もある。逆に酷くやつれた顔や激しい出血があっても意外と軽傷で早くに回復する場合もあるだろう。

 だから医師も看護師も見た目だけではなく、問診の内容や検査の数値を参考にして、総合的に患者の病状や体調を判断している。むしろ見た目こそが最も誤診を招きやすい要素として疑っておくべきでもあった。


 宮園妃倭子はいつの頃かに、何かしらの難病に罹患りかんしたことで現在のような状態になってしまったらしい。見た限りでは全身が動かせず外的刺激にも反応しないが、喉から胃へと栄養物を摂取でき、時折声を上げたり立って歩き回ったりすることもあるらしい。カルテもなければインターネットにも繋がらないので詳しい病状は分からないが、恐らく脳に障害を負い思考能力と運動機能が大きく制限されているのだろう。


 ただ、本来なら病院か専門の施設に入るべき状態だが、彼女はこの山奥の屋敷に隔離されて、住み込みのヘルパーから介護を受けて生活している。彼女自身の判断ではなく、名家と称される資産家の身内がそのように取り計らっているようだ。彼女が一体何者なのか、実際にはどのような病気を患っているのか、なぜこんな環境に置かれているのか、疑問は多々あるが茜はそれを追及すべき立場ではない。所詮は訪問介護サービス会社の社員として、彼女を介護するために派遣されたヘルパーに過ぎないからだ。


 病院勤務の看護師を辞職する前後に一年かけてようやく見つけた仕事でもある。住み込みの仕事にも不満はなく、自分に向いているとさえ思い始めていた。人にはそれぞれ事情があり、日々、様々な問題を抱えて生きている。つまらない好奇心や向こう見ずな正義感で馘首クビになるつもりはなかった。

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