第12話

「さぁ妃倭子さん、お昼ご飯ですよ。起きましょうね」


 引田は普段通りと言った様子で妃倭子に呼びかけている。やはり聞き間違えでもなければ、熊川がおかしな物を運んできたわけでもないようだ。


「ベッドにもたれさせるから、茜ちゃんは腰を持ち上げて」


 そう言って引田は妃倭子の背後から脇に両手を差し込んで引き上げる。茜は言われるままに腰の下に腕を回して体を支えた。妃倭子はそれでも何の反応も示さず全身を弛緩させている。見かけ以上に重く、固く、冷たい。かつて何度も担いだことのある死体の感触によく似ていた。

 妃倭子をベッドのヘッドボード、頭側の縁にもたれさせると、引田は彼女の頭部を後ろに倒して顔を上向きにさせる。そして首元の黒いリボンを緩めると、被っている黒袋を鼻の辺りまでたくし上げた。


「あ、顔が……」


「そう。お顔は見ちゃいけないことになっているの。だから上げるのはここまでにしてね」


 黒袋の下からは大口を開けた青緑色の顔が見えている。口は妃倭子が意図的にそうしたのではなく、上を向かせたせいで顎が自然と下がったようだ。赤黒い口内には整列した灰色の歯と、渇いた赤身肉のような舌が見える。何かが腐っているような、酸味の感じられる刺激臭が鋭く鼻を突いた。

 絶対に見てはいけないと言われていたが、露わになった顔の下半分は特に驚くほどのものではなかった。血が通っているようには見えない肌の色と、腐臭に似た口臭は異様だが、それは顔以外の手足を見た時からも気づいていたことだった。

 それでは顔の上半分、目や髪に見てはいけないほどの異常があるのだろうか。これ以上に目を向けることもはばかられる何かが、あるいは妃倭子の病気や名家と呼ばれる一族の秘密が……。


 茜の疑念をよそに引田は手慣れた調子で作業を進めていく。カートをベッドの近くに寄せると、トレイの上から例の漏斗のような器具を取り上げた。それをどうするのかと見ていると、いきなり彼女は妃倭子の開いた口にし込んだ。


「ひ、引田さん? 何を……」


「落ちないようにしっかり入れてね。手順、間違えないようにね」


 引田は真上から力を込めて器具をさらに喉の奥深くに押し込む。そして持ち手を握ると妃倭子の首がわずかに膨らみ、中で器具が開口したことが分かった。


「はい、茜ちゃん、代わりに持って」


「え、あ、はい」


 とっさに器具の持ち手を渡されて茜は両手でそれを掴む。手が滑稽こっけいなほど震えていた。


「あ、あの、引田さん?」


「あまり動かさないで、強く握らないでね……いいよ、そのまま、そのままでキープね」


 引田の指示に茜は身を固めたままうなずく。力を込められず、しかし緩められず、瞬きも忘れて両手とその先の器具を凝視し続けていた。ステンレス製の漏斗は揺らぐロウソクの灯りを受けて、血にまみれたように赤く染まっている。先端は口内を超えて喉の深くまで達しており、一番奥はただ黒い穴になっていた。

 カチャカチャと金属のぶつかる音が隣から聞こえてくる。目だけを向けて見ると、引田がボウルに入ったミンチ肉をスプーンで掻き混ぜていた。肉は油分と水分をたっぷりと含んでいるらしく、やがてドロドロのペースト状へと変わっていく。その様子を見て、彼女が何をしようとしているのかはっきりと分かった。


「はぁい、妃倭子さん、ご飯ですよ」


 そして引田は肉をスプーンですくうと、少しずつ妃倭子の喉に繋がった漏斗に流し込む。わずかにもためらう素振りがないことから、日常的に行われているのは明らかだった。


「ゆっくり飲んでくださいね。美味しいですか? 続けますよぉ」


 引田は優しげな声で呼びかけるが妃倭子はやはり何の反応も示さない。マネキン人形のように静止して、与えられるままに流動食を摂取し続けていた。少し泡立った赤い肉の液体が、傾斜に沿って穴へと吸い込まれていく。喉を動かして飲み込んでいるようにも見えないが、食物は溜まることなく食道を通過しているようだ。

 茜はいつの間にか歯を食い縛り、両手の震えを必死に抑え込んでいた。一体何が起きているの? 自分は何を手伝っているの? 頭は理解していても、心は納得できない。淡々と進行する異常な光景に思考がついていけなかった。


「じゃ、茜ちゃん、交代しようか。ちょっと普通の介護とは違うけど、難しくないから大丈夫だよ」


「あ、はぁ……」


 困惑する中、言われるまま引田に漏斗を差し出す。そして出来の悪いロボットのような動きで体をひねってトレイからボウルとスプーンを取り上げた。再び妃倭子のほうへ向き直すと、見よう見真似で粘り気のある赤肉をスプーンですくう。グチャッと湿った音がハエの飛び交う寝室に響いた。


「茜ちゃん、妃倭子さんに声をかけてから入れてあげてね」


「き、妃倭子さん。よろしいですか? ご、ご飯ですよ……」


 上擦った声で呼びかけつつ、口内に挿し込まれた漏斗に向かってスプーンの中身をぼとぼとと落としていく。妃倭子は無反応のまま、与えられるままに喉へと流し込んでいった。まるで給餌きゅうじだ。親鳥が雛に吐き戻しを与えている姿と同じだ。茜は暑くもないのに全身に汗をかき、重くもないのにスプーンを持つ手が痙攣けいれんしていた。


「引田さん……これはお肉なんでしょうか?」


「合い挽き肉だね。牛さんと豚さんのミンチ、それと卵と牛乳と油と塩を混ぜてあるんだよ」


「や、焼かなくても良いんですか?」


「妃倭子さんは生のほうがお好きみたい。焼いたのを食べさせると体の調子が悪くなって元気がなくなるの」


 頭の中にある医学知識や衛生観念が色せてゆく。茜は看護師の時代の経験を何一つ活かせないまま、溶けた生肉を要介護者の喉に与え続けていた。引田はヘルパーらしい穏やかな笑みを浮かべて、何の裏黒さも後ろめたさも抱いていない様子で妃倭子に接している。もはや何が正しいのかも分からなくなっていた。


「引田さん、妃倭子さんは、その、動くこともあるんでしょうか?」


 茜は口籠もりつつ回りくどい質問をする。生きているのですか? と尋ねてしまうと、この介護そのものを否定してしまうと思った。

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