第11話

 引田や高砂は妃倭子の病状を難病と説明したが、それが法律によって定められた指定難病のことなのか、単に得体の知れない謎の病気をそう呼んでいるのかは分からない。ただ妃倭子の脳内で身体の運動をつかさどる分野か、そこから身体の各部位に信号を送る箇所に障害が発生していることには違いないようだ。


 しかし、妃倭子の状態はそれだけには留まらないように見える。青緑がかった肌の色は何かしらの皮膚疾患を発症しているのだろうか。日光に対するアレルギーも関係しているのかもしれない。また頭部に黒い布を被せている理由も分からない。光を避けるためだとしても、他に方法があるだろう。重篤じゅうとくな病気を患った者への対応としては、あまりにも不自然に思えた。


「茜ちゃん、妃倭子さんのお世話は一日三回のご飯とお風呂とおトイレなの。それ以外はこうしてのんびり過ごしておられるから、私たちはあまり構わなくていいんだよ。たまにお喋りに来てもいいけどね」


 引田は話を続けるが、茜はこの介護にも違和感を覚える。大抵、全身麻痺の者は事故を防ぐために二十四時間の介護が求められる。ふいに症状が悪化する可能性もあり、たとえばこの天蓋を囲むカーテンが落ちて顔を覆っても払いのけることすらできないからだ。他にも寝返りが打てないことでの褥瘡じょくそう、いわゆる床擦とこずれが重症化することもある。動かないからといって放っておけるものではないはずだ。


 そういえば引田は妃倭子のことを、ほぼ寝たきりと話していた。ほぼ、と言うことは、ある程度は動くこともできるのだろうか。意識した動作は難しくても反射的に体を動かせるなら、身の危険も避けられるのかもしれない。それなら常に見張っておく必要もないだろう。


「そうそう、妃倭子さん。さっき茜ちゃんと話していたんですけど、お屋敷のお庭にお花を植えても良いですか? だって今、何も植わっていないからつまらないんですよ。お庭の一角を耕してお花畑にして、季節ごとに花を入れ替えていくんです。素敵だと思いませんか? このお部屋にも飾れるようにしますよ。ね、茜ちゃん」


「そ、そうですね。妃倭子さんがよろしければ、はい……」


 茜は引田の調子に合わせて声を弾ませる。今は困惑した態度を見せるわけにはいかない。たとえ反応がなくても、こちらが見えないとしても、耳には届いているかもしれない。介護は互いの信頼関係によって成り立っている。身体の障害が大きいほど、文字通り身を任せる気持ちを持ってもらわないといけない。初対面から暗い声で疑問を投げかけているわけにはいかなかった。


「美しいお屋敷ですから、お庭も華やかにしたいですね。妃倭子さんは……その、どんなお花がお好みでしょうか?」


「やっぱりバラですよね。お庭に一面バラの花園が広がっているんです。きっとヨーロッパのお城みたいになりますよ」


 引田が代わりに楽しげな声を上げる。


「あ、でも今年はもう時期遅れかなぁ。八月に植えるお花って難しいですよね。いっそ今は畑作りに専念して、秋になったら何か植えてみましょうか。チューリップとかアネモネとか、春に咲いたら綺麗ですよ。お花の勉強もしなくちゃ」


 妃倭子からは何の言葉も返ってこない。


 茜は自らの内より湧き起こる感情を必死に抑えこんでいた。


 看護師と勤務していた頃、これによく似た状況を何度か体験した覚えがある。


 外来患者の受付が終わり、入院患者も寝静まった夜。裏手の救急搬入口からひっそりと担架に乗って運び込まれる患者。


 顔が二回りも膨らんだ者、腹部の切れ目から黄色い脂肪にまみれた内臓を覗かせた者、全身が赤黒く焼けただれた者。


 一番近いのは、一人暮らしの暗い自宅に何週間も放置されていた者だろうか。


 付き添いは家族ではなく、地味なスーツを着た警察関係者だった。


 黒縁眼鏡の内科部長は慌てることなく、まるで壊れた人形を解体する時のような冷めた眼差しで患者を診察し、報告書にまとめていた。


 隣で助手を務める自分も同じように、帰宅時の満員電車に乗った時のように無表情で佇んでいただろう。


 一切の感情を排除することが求められていた現場。

 しかしあの時目にした者たちの姿は、ドロドロに混ざり合って今も脳内の縁にこびり付いている。

 妃倭子に会った瞬間、普段は気にも留めていなかったその記憶の泥溜まりを覗いてしまったような気がした。

 だから思わず疑問を口に出してしまいそうになって、そんな自分の感覚に恐怖を抱いた。


 これはもう、死んでいるのではないですか? と。



「失礼します」


 ドアをノックする音とともに低い声が響いて、熊川がカートを押して寝室に入って来る。病院でも使用されていた、三段の棚にキャスターが付いた配膳用のものだった。


「妃倭子さんのお食事をお持ちしました」


「わぁ、ありがとう光江ちゃん」


 引田は小走りでベッドを離れて熊川の許へ向かう。


「じゃあ今日は私と茜ちゃんとでお昼ご飯のお世話をするよ」


「二人で? 任せても大丈夫?」


「大丈夫だよ。ね、茜ちゃん」


「あ、は、はい……」


 妃倭子に気を取られていた茜は振り返って即答する。何もおかしなことはない。当然、妃倭子にも昼食が必要だ。熊川は遠いところからいぶかしげな目を向けていたが、黙って引田にカートを渡した。


「それじゃ、私たちの昼食も準備してくるから」


「うん、よろしくね」


 引田は熊川と別れるとカートをベッドサイドまで運んできた。


「じゃあ茜ちゃん。妃倭子さんにお昼ご飯を食べてもらうから、私のやり方を見ていてね」


「はい、え?」


 カートに乗せられている物を見て、茜はまたしても言葉を失った。

 何か聞き間違えたのか、そこには食事とは結びつかないものが置かれていた。

 カートの上には手術室で見たことのあるステンレス製のトレイがあり、同じ素材の大きなボウルと奇妙な器具が乗っている。ボウルの中にはミンチ肉をミキサーですり潰したような物体が大量に入っているが、加熱された様子はなく、いわば焼く前のハンバーグにしか見えなかった。


 ボウルの隣にある器具は金属の漏斗ろうとに似た三角すいの形状をしており、広いほうの口部から真横に二本の棒が伸びている。この棒はハンドルになっており、握ると鳥のくちばしのように漏斗の先が開き、離すと閉じる仕組みになっていた。


 なぜ、こんなものが?


 茜はぞっと、背筋に寒気が走るのを感じる。一目見て使い方に気づいたのは、医療器具にも同じようなものが存在するからだ。


 それはクスコ式膣鏡ちつきょう。女性器に挿し込んで開口し、膣内を検診するために使われる器具だった。

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