第9話

 そのことは事前に高砂からも聞いている。


「だから茜ちゃんがどれだけ話しかけても上手く伝わらないと思う。というか今はお昼寝しているかもしれないよ」


「そうなんですね、分かりました」


「それと妃倭子さん、外見もかなり痛々しい様子になっているの。手足も固まって、お肌も弱いから生傷が絶えなくて。私たちはもう慣れているけど、体臭もかなり強いと思う。特に夏場は、お風呂に入れてもすぐに匂ってきちゃうんだよ」


 どうやらそのためにもマスクを付ける必要があるらしい。いささか大袈裟な気もするが、実情を知らない内は素直に従っておくのがいいだろう。


「私がこういう話をするのもね、要するに知らない人からすれば怖い見た目をしていると思うからなの。だから前もって、びっくりしないでねって断っているんだよ」


「ああ……いえ、それは平気だと思います」


「本当に?」


「はい、看護師でしたから」


 茜は自信を持って返答する。言うまでもなく、外見の損傷については一般人よりも耐性があるつもりだ。手足を失った患者や全身に火傷やけどを負った患者、腫瘍しゅようで顔面が変形した患者を扱ったこともある。血液や糞便の匂いも日常茶飯事だった。いずれも慣れれば気にならなくなることも知っていた。

 熊川から言われた通り、看護師の仕事には向いていなかったのかもしれないが、病人や怪我人への扱いに不安や忌避の念はない。少なくとも見た目が酷いから介護できないと思うはずもなかった。


 引田は納得した風にうなずくと、続けて引き出しの別の段からロウソクとマッチを取り出す。そして近くに飾られていた三股の燭台しょくだいにロウソクを挿して火を灯し始めた。

 一体何をしているのだろうか。薄暗いとはいえリビングは窓から陽光が射し込んでおり、天井からは電気式のシャンデリアも下がっている。不思議に思って見つめていると、彼女は火の着いた燭台からこちらに目を移した。


「それじゃ寝室に入るけど、茜ちゃん。妃倭子さんに会う際には守ってほしいルールがあるの」


「ルール?」


「そう、三つだけなんだけど、絶対に破っちゃいけないことだから覚えておいてね」


 マスクを付けた引田が燭台を手に茜を見つめる。灯火の光を受けて顔に陰が揺らいでいた。


「一つ目のルールは、妃倭子さんの前ではこのマスクとゴム手袋を絶対に外さないこと」


「それは、感染症対策ということですか?」


「さすが、看護師さんなら分かるよね。私たちから妃倭子さんに病気を移さないための措置だよ。妃倭子さんの病気が私たちに移ることはないから心配しないでね」


 茜は引田の説明を聞いてうなずく。病気で寝たきりになれば体力が衰えて免疫力も大きく低下するため、ヘルパーが外部から持ち込んできた弱毒性の雑菌やウィルスなどに感染する恐れがある。マスクやゴム手袋で飛沫や接触による感染対策は、完全ではないが有効な手段だった。


「二つ目のルールは、妃倭子さんに光を当てないこと」


「光……ということは、日光の刺激が体に良くないんですか?」


「そう。お日さまに当たっていると火傷みたいに水膨れになったり蕁麻疹じんましんが出たりするんだって。この時期は日射しも強いから特に大変。だからいつも寝室はカーテンを閉め切って真っ暗にしているんだよ」


 日光の曝露ばくろによる健康被害は珍しいことではない。広い意味では健常者の日焼けも紫外線による皮膚疾患と言えるだろう。妃倭子はそれに加えて光線過敏症によるアレルギー反応を起こしている疑いがある。程度が重いとアナフィラキシーショックを起こして命にも関わる症状だ。


「でもお日さまだけじゃなくて強い光も目に良くないから照明も点けられないんだよ。だからこうしてロウソクの明かりを持ってお世話しているの」


 引田は燭台を軽く持ち上げてそう話す。ロウソクを手に介護へ向かうなどナイチンゲールのようだ。しかし、それなら光量の弱い電灯でも代用できるのではないだろうか。片手が塞がっていては介護もやりにくく火事も心配だった。


「三つ目のルールは、妃倭子さんの顔を絶対に見ないこと」


「え、顔を?」


 茜は思いもよらない話に驚き聞き返す。引田は平然とした表情のままうなずいた。


「そう、顔をね。見ちゃ駄目だよ」


「……それはまた、どうしてですか?」


「理由は知らないけど、ここではそういうことになっているんだよ」


「そういうことって……ですが、顔を見ずにどうやって介護するんですか? 横を向いているんですか?」


「ああ、それは大丈夫。見えないようにしてあるからね」


「見えないように?」


「そう、見れば分かるよ」


 引田は冗談めかした口振りで話すが、その目は笑っていなかった。顔を見てはいけないとは、どういうことだろうか。この三つ目のルールは先の二つと違って理由が全く想像できない。引田もよく分からないまま従っているようだ。


「茜ちゃん、いいかな? この三つのルールだけは絶対に守ってね」


「は、はい。分かりました……覚えておきます」


 茜は戸惑いつつも了解する。何はともあれ、決まり事に逆らう気はない。引田は返答を確認すると、燭台を片手に寝室のドアを開けた。


「妃倭子さーん、入りますよー」


 ドアの先は完全な黒一色に染まっていた。悪天候の真夜中よりもさらに暗く、天井はおろか壁も床も、自分の手元すらよく見えない。引田の持つロウソクの灯りだけが唯一の光源となってほのかに周囲を照らしていた。


「し、失礼します」


 茜も闇に向かって挨拶してから入室する。ぐにゃりと、柔らかい感触が足の裏から伝わった。リビングと同じ毛足の長いカーペットが敷かれているらしい。引田は慣れた足取りで部屋を巡り歩きながら、備え付けられた燭台にロウソクの火を移して回る。どうやらそれを照明代わりにして介護にあたるつもりのようだ。


 広い寝室に小さな光が点々と灯されて、形の定まらない陰が波打つように揺らいでいる。床には内臓のように赤黒いカーペットが敷かれており、壁際には鏡の付いたキャビネットや、恐らくもう使われていない暖炉が備え付けられているのが辛うじて確認できた。


 壁には分厚いカーテンが掛けられて、窓から入る陽光を完全に遮断している。室内にはひんやりとした空気が漂っていて、入る前のリビングより気温も一、二度は低いように感じられた。

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