第10話

 茜は引田の後ろにぴったりと付き添いながら、右手で剥き出しの左腕を軽くさする。そこまで寒いはずもないのに、なぜかそうせずにはいられなかった。


 高い天井の中央からは星のようにまたたく大きなシャンデリアが吊されているが、今は通電していないので暗い飾りにしか見えない。そして真下には天蓋てんがいからカーテンを下ろした豪華なベッドが置かれていた。


 何かいる。


 ベッドの周囲は深いドレープの付いたベージュ色のカーテンに囲まれて中の様子は窺えない。しかしその向こうからは、得体の知れないものが潜んでいる気配を感じていた。物音一つ聞こえてこないのに、何かが確実に存在していることが分かる。それはちょうど夏山の森林にある、木々の隙間から覗く闇に似ていた。


「妃倭子さーん、開けますよぉ。起きてますかぁ?」


 最後にベッド前の燭台に火を灯した引田がカーテンに向かって声をかける。返事はなく、代わりに何か振動音のような物が延々と聞こえていた。天蓋からはよく分からない黒く長い紙が何本も垂れ下がり、ゆらゆらと揺れている。飾りにしては不自然で、まるで何かのまじないのようにも見えた。


 引田が片手でカーテンを開くと、ふいに強い生臭さが鼻を突いた。厚手のマスク越しからでも分かる、血と汚物と、何か分からない匂い。籠もっていた臭気がむっと押し寄せてきた。

 続けて耳元で例の振動音が大きく聞こえる。しかし横を向いても何もなく、ただカーテンの側でいくつもの黒く長い紙が揺らいでいるだけだった。何だろう? じっと目を凝らして見つめると、そこに何十匹ものハエがびっしりと留まっていることに気づいた。それは黒い紙ではなく、飛び回るハエを引っ付けて捕らえる粘着性のあるハエ取り紙だった。


「妃倭子さん、妃倭子さん。今日はねぇ、新しいヘルパーさんが来てくれましたよ」


 引田は躊躇ちゅうちょすることなくベッドに近づく。茜は高まる心音を抑えながら、ゆっくりと後ろに続いた。何か、想像以上の存在がそこにある。何を目にしても動じないつもりでいたのに、見る前から何かに脅えている。ベッドの上には掛け布団もなく、大人の女性らしき人型のものがある。


 彼女がこの屋敷の主、宮園妃倭子だった。


「ほら妃倭子さん、分かりますか? 栗谷茜さんですよ」


 引田はすっと体をかわして茜と妃倭子を対面させる。


「し、失礼します」


 茜はそれでも必死に笑顔をこしらえて、妃倭子に向かって挨拶した。


 そこには、赤い薄手のローブを身にまとい、黒い袋を頭から被った大柄の女が横たわっていた。



 茜は彼女を見た瞬間、呼吸をするのも忘れてその場で固まってしまった。


 何だこれは?


 宮園妃倭子に対して最初に抱いた印象は、およそ介護ヘルパーらしからぬ疑問だった。


 仰向けになっているので正確には分からないが、少なくとも茜よりも背が高い。また寝たきりの割には肉付きが良く、均整の取れた体つきをしていた。

 しかしローブのすそからは苔生こけむした古木のように青緑がかった足が伸びており、所々で傷付いて黒い血が泥のように固まっている。袖口からも同じような色の腕が見えるが、その先では鳥が枝を掴むように指の関節が曲がっていた。

 そして頭にはすっぽりと黒い袋を被っている。巾着を逆さにしたような形状で、首元をしぼって黒いリボンで緩く絞められていた。生地はシルクらしく滑らかに波打った質感と濡れたような光沢が窺える。リボンの下はわずかに見える首を経て肩口へと繋がっていた。


「引田さん、これは……」


「妃倭子さん。分かりましたかぁ? この人が茜ちゃんですからね」


 引田はベッドサイドのテーブルに燭台を置くと、戸惑う茜をよそに声をかける。彼女が新人への冗談やサプライズのつもりでこんな悪戯いたずらを仕掛けるはずがない。紛れもなく本人。難病を患った三十二歳の要介護者に違いなかった。

 しかし、これはまるで……


「茜ちゃん」


 引田に呼びかけられて茜は肩を震わせる。彼女はこの部屋に入る前と変わらない穏やかな笑みを浮かべてこちらを見つめていた。


「どうしたの? 大丈夫?」


「あ……はい、すみません」


 茜は慌てて小刻みにうなずく。こんなことで取り乱すわけにはいかない。妃倭子の状態が尋常でないのは前もって聞かされていたことだ。だからこそ彼女は介護を必要としているのだ。


「じゃあ茜ちゃんも妃倭子さんにご挨拶して」


「は、はい……」


 引田に促されて茜は前に出る。妃倭子はカーテンを開けた時の状態と全く変わらず微動だにしない。


「は、初めまして、宮園妃倭子さん。今日から皆さんと一緒にヘルパーを担当させていただきます、栗谷茜と申します」


 茜は引きつった笑みを浮かべたまま、口に付くまま言葉を連ねる。


「か、介護の仕事は初心者ですが、看護師の資格は持っていますから、色々とお役に立てるかと思います。至らないところもあるかと思いますが、精一杯サポートさせていただきますので、どうぞよろしくお願いいたします」


 ブブッと耳元で音が聞こえて茜は思わず身をる。一匹のハエが顔の周りを飛び回り、カーテンの陰に身を隠した。妃倭子からは何の声も聞こえない。頭に被った黒い袋は闇に紛れて、まるで首から先が何もないようにも見えた。


「引田さん、妃倭子さんは……その、お昼寝をされているんでしょうか?」


「そう、妃倭子さんって顔も見えないし、お返事もしないし動かないから、起きているのかも寝ているのかも分からないんだよ。だけど、もし起きていたら何もお話ししないのは失礼でしょ? 寝ていたとしてもお世話をする時は起きてもらったほうがいいよね。だからやっぱり、反応がなくても話しかけるようにしているんだよ」


 引田の明るい声だけが寝室に響く。茜は妃倭子の黒い頭から目が離せなかった。


 これは一体どういう状況なのか? 体が動かず、意思疎通が困難な患者は珍しくない。事故により頸椎けいつい脊髄せきずいが損傷して全身不随に陥ることもある。あるいは筋萎縮性側索硬化症きんいしゅくせいそくさくこうかしょう(ALS)やアルツハイマー型認知症の末期にもそのような症状が発生することがあるだろう。認知症は年齢が若くても発症の可能性があり、若いほど進行が早まる傾向にあった。

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