第8話

 引田はそう言うと闊達かったつに笑う。やはり高砂藤子と神原椿の関係は茜の想像通りだったようだ。


「だから茜ちゃんも不満があったら高砂さんに言うといいよ。私も遠慮なく話しかけるし文句も言ってるからね」


「いえ、私は……」


「ネックストラップはもういらないよ。お仕事の邪魔になるからね」


「あ、はい」


 茜は言われた通りにネックストラップを外してポケットにしまう。引田の首からは既に消えている。どうやら高砂の来訪に合わせて形式的に着けていただけらしい。住み込みで勤務しているだけなら確かに不要な物だった。


「大丈夫だよ、茜ちゃん。私たち家族みたいなものだから、言いたいことは言い合わないと。高砂さんがお母さんで、神原さんは年下のお姉さん、みたいな? もちろん仕事でミスしたら叱られちゃうけどね」


 なるほど、家族という説明は的を射ているように思える。従業員数の少ない小さな会社ではこういう関係にもなるのだろう。


 茜は以前に勤務していた総合病院の看護部長を思い出す。きついパーマ頭にファンデーションを厚塗りした白い肌と真っ赤な唇が際立つ初老の女。管理職のため普段は現場にも顔を出さなかったが、たまに見かけた時はいつも何かに怒っていた。

 茜が辞職したい旨を伝えた時も、理由を聞いたり引き留めたりすることもなく、仕事の引き継ぎだけは遺漏いろうなく行うようにと命令されただけだった。見下すような眼差しと、話の端々に舌打ちと溜息が混ざる口元が忘れられない。看護師は病院内の雑務をこなすロボットであり、壊れたら代わりを補充すればいい。彼女はそのように認識しており、実際その通りでもあった。

 あの職場環境と比べると、ここは身の丈にも合っているように思えた。


「……素敵な職場ですね」


「そうなのかな? 私は他の仕事をしたことないけど」


「そう思います」


「社長が椿さんに変わって、どうなるか分かんないけどね。高砂さんも気が気でないみたい。今はおめでたで、お腹にお子さんがいて大変だし」


「ああ、やっぱりそうなんですね」


「気づいていた? そうなんだって。だから私たちも支えていかないと……」


「引田さん」


 これまで黙っていた熊川が背後から冷めた口調で声を上げる。


「栗谷さんはまだ研修期間中だから、あまりそういう話はしないほうがいい」


「え、そうかな?」


 引田は振り返って戸惑いの表情を見せる。熊川は彼女と茜とを見比べるように細い目を動かしていた


「でも光江ちゃん。研修期間中だからこそ会社のことも話したほうがいいと思わない? みんな仲良しだから安心してねって言ってるだけだよ?」


「仕事までぬるいと勘違いされたら迷惑だから。まだ妃倭子さんにも会っていないのに」


「大丈夫だって。だって茜ちゃんは元・看護師さんなんだよ。介護の仕事にだって慣れているはずだよ。ね?」


「馴染めなかったから、辞めてここへ来たんじゃない」


 熊川は茜が返答する前に言い放つ。


「看護師の仕事に向いていたなら、こんな山奥でヘルパーになんてならない」


「ちょっと光江ちゃん、それはさすがに失礼だよ」


「あ、あの、待ってください」


 茜は思わず声を上げて二人の会話を制した。


「熊川さんがご指摘の通りだと思います。私はまだ来たばっかりなので、お屋敷のこともお仕事のことも何も分かっていません。だからお二人にはご迷惑をおかけすると思います」


「茜ちゃん、いいんだよそんなの」


「引田さんの話を聞いて、本当にいい会社だと分かりました。私もここで働きたいと思っています。だけど、その、甘えるつもりはありません。早く一人前になれるように頑張りますので、どうかよろしくお願いします」


 茜は特に熊川に向かって深く頭を下げる。自分のせいで二人を揉めさせるわけにはいかない。

 顔を上げて熊川を見ると、彼女は気まずそうに目を逸らした。


「……妃倭子さん、昼食の時間だから。準備してくる」


 そして、ぷいと背を向けてエントランスの左手へ向かう。


「うん、分かった。じゃあ茜ちゃん。先にご挨拶に行こっか」


 茜は引田に手を引かれて邸宅の奥へと歩き始めた。


「光江ちゃん、怒らせちゃった。なんだかごめんね、茜ちゃん」


「いえ、こちらこそ……すみません」


「気にしないでね。あの子、ちょっとツンツンしているけどいい子だから。きっと仲良くなれるよ」


 引田や高砂の態度を見る限り、どうやら熊川光江はちょっと難しい性格らしい。ただ、彼女の言葉も決して的外れな指摘でもないだろう。ここは自宅ではなく仕事先の屋敷であり、自分たちは家族ではなく会社の同僚だ。親しくしていても、その点を忘れてはいけないと思った。



 屋敷の中央には二階へと続く大階段がある。


 階段の先は闇に呑まれてよく見えないが、二階にもいくつか部屋があるのだろう。


 妃倭子の許へ向かう引田はそれを通り過ぎて、さらに奥へと茜を案内した。

 リビングらしき部屋では床に毛足の長いカーペットが敷かれており、年代を感じさせる臙脂えんじ色のソファと丸テーブルが置かれて隅には暖炉だんろが設けられている。やはりヨーロッパの古い邸宅風というか、広大な敷地を持つ領主のお屋敷といった風情が色濃く感じられた。

 もしこれが渡欧先の観光地だったとしたら、素敵な趣味だと思って眺め回したり、写真を撮り回ったりしていたかもしれない。しかし自分が住む屋敷の一室だと思うと、薄暗さと静けさと、妙な涼しさに独特の不気味さを抱いてしまう。そして現実的には、これは掃除が大変だと思わずにはいられなかった。


「茜ちゃん」


 リビングから続くドアの前で、引田が立ち止まって振り返る。


「ここが妃倭子さんの寝室なんだけど、先にこれを着けてね」


 そう言うと傍らのテーブルに置かれた引き出しから白いマスクとゴム手袋を取り出して手渡された。マスクは四角いガーゼマスクではなく、蛇腹状で鼻から顎までを覆うサージカルマスクだ。ゴム手袋も炊事や掃除に使う物よりも薄手の、茜には馴染み深い医療用の物だった。どちらも使い捨ての物で、傍らには踏み板で蓋を開けるステンレス製のゴミ箱も設置されていた。


「それと、妃倭子さんのことだけど……見てもびっくりしないでね」


「びっくり? どういうことですか?」


「さっきも話したことだけど、妃倭子さんは重い難病にかかっているの。そのせいで、まだ三十二歳の若さなのに手足が不自由になって、認知症の傾向も強くて会話もままならないんだよ」

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