第7話

「他のかたは?」


「え、他のかたって?」


 引田は小首を傾げて不思議そうな顔で聞き返す。


 やはりこの屋敷には宮園妃倭子が一人で住んでいるらしい。


 しばしの沈黙のあと、茜はあらためて口を開いた。


「……あの、率直な疑問なんですが、妃倭子さんは、どうしてこのお屋敷に一人でお住まいなんですか?」


「どうしてって言われても……うーん、どうしてなんだろうねぇ」


「こんな立派なお屋敷に住んでいて、私も含めると三人もヘルパーを雇って介護を受けているんですよね。それだけでも凄くお金がかかると思うんですけど」


「ああ、それは私も思うよ。あとでお屋敷の中を見て回るといいけど、ベッドとかタンスとか、家具も凄く高そうなのがあるんだよ。だからまあ、半端ないお金持ちだろうね」


「ですが、要介護者が生活するには不便じゃないですか? それならここに住むよりも、麓の町の介護施設に入居したほうが良いように思うんですが」


「そうなったら私たちの仕事がなくなっちゃうよ」


「それはそうですけど」


「それは冗談だけど……椿さんから聞いた話だと、何か事情があるらしいよ」


「はぁ……どんな事情が?」


「何でもこの宮園さんの家って、いわゆる名家って呼ばれるものらしくて、昔からご身内には国会議員とか大企業の社長とか学者とか、偉い有名人がたくさんいるんだって」


「名家、ですか」


「そう。今も親戚には衆議院議員がいるとか、誰でも知っている会社の社長や銀行の上役とも繋がりがあるとか……とにかく妃倭子さんって凄いセレブのご令嬢さんみたい。椿さんも全部は教えてくれないんだけど、遠縁には有名な俳優さんや女優さんもいるらしいよ」


「そんな方が……だから介護施設には入れられないということですか?」


「私はそんな気がするよ。難病に罹ってほぼ寝たきりの身内がいるなんて、世間に知られたくないんじゃないかな」


「しかし、それならなおさら医療施設に入ってきちんと治療を受けるべきではないでしょうか?」


「そうかも知れないけど。ただ妃倭子さんがこのお屋敷で私たちから介護を受けている理由はそういうところにあるみたい。私たちもあまり追及しないようにしているんだよ」


「……確かにヘルパーが依頼者の家庭事情をあれこれ詮索するのは良くないと思いますが」


「そういうこと。私たちは依頼者の希望を汲み取って、与えられた環境で介護に取り組むのがお仕事だからね。椿さんも事情を知った上でヘルパーのお仕事を請け負っているはずだから心配しないで」


 引田は介護のプロとして先輩らしい真っ当な意見を述べる。もしかすると、神原が自分を採用した理由もそこにあるのだろうか。体調不良で前職を辞めて、親とも疎遠で、スマートフォンが使えなくても困らない性格を見て、これなら屋敷と妃倭子の話を周囲に吹聴ふいちょうしないだろうと思われたのかもしれない。そう考えると、あの無邪気な同じ歳の社長もなかなかの切れ者に思えてきた。


「あ、ちなみにそんなセレブで特別なお家が相手だから、【ひだまり】の利用料金もかなり高めに設定しているみたい。茜ちゃんのお給料もしっかり振り込まれるはずだから安心してね」


「いえ、そんなつもりでお伺いしたわけでは……」


「それに、茜ちゃんも妃倭子さんをお目にかかったら分かるよ。あの人が町の施設に入って介護を受けるのは……ちょっと難しいかもしれないって」


 続けて引田は笑顔のまま意味ありげな言葉を残す。なんだろう? どうやら他にも妃倭子がこの屋敷で介護を受けている理由があるようだ。



 茜がそろいの介護服に着替えてネックストラップを首から提げてから部屋を出ると、引田とともに再びエントランスへ戻る。

 引田から屋敷についての説明を聞くうちに、緊張がほどけて安堵を覚え始めていた。

 宮園妃倭子の事情は知らないが、ここは想像していたほど悪い仕事環境ではない。スマートフォンは繋がらず、近所にはショップやカラオケはおろかコンビニエンスストアの一軒も存在しないが、都会から逃れてきた茜にとっては不便とは感じなかった。共同生活ゆえに完全とはいかないが休日もあり、給与も保証されているなら何の不満もない。それどころか、住み込みの仕事さえ厭わなければ理想的とも言える気がしていた。


 エントランスでは、ちょうど高砂と熊川が戻って来たところと鉢合わせになった。


「あら栗谷さん。引田さんの話は終わったかしら? お部屋はどうでしたか?」


「はい、立派なお部屋をご用意いただいて。仕事の内容もよく分かりました」


「介護服はどうかしら? 面接の時に聞いた寸法で合わせてみたんだけど」


「問題ありません。ぴったりです」


「大丈夫? 続けられそう?」


「多分……頑張れるかと思います」


「そう。それなら良かったわぁ」


 高砂は目尻に皺を作って微笑むと、ほっと溜息をついた。


「やっぱり最初が肝腎ですからね。こんなつもりじゃなかったなんて言われたらどうしようかと思っていたの。大丈夫、栗谷さんならできるわよ」


「ありがとうございます」


「困ったことがあれば二人に相談して、もちろん会社に連絡してくれてもいいからね。ほらほら栗谷さん、また暗い顔してるわよ。笑顔、笑顔。スマイル、ハッピーよ」


「あ、はい。はは……」


 茜は慌てて口角を持ち上げてぎこちなく笑う。性格上の問題か、ずっと笑顔でいるというのもなかなか大変だった。


「それじゃ、私はこれで帰るわね。引田さん、熊川さん、後はよろしくね。栗谷さんも頑張ってね。ああ、これ、みんなへのお土産みやげ。ジャムと蜂蜜のセットよ。朝食の時にみんなで召し上がってね」


 高砂はそう言うと鞄から土産物の箱を取り出して引田に渡す。そしてワゴン車に乗ると茜たちに見送られて屋敷から去って行った。


「高砂さん、相変わらずパワフルねぇ。こっちも負けていられないよ、茜ちゃん」


 ワゴン車の姿が視界から消えてから引田が話す。


「本当にお元気ですね。高砂さんは……神原社長のお母さん、ですよね?」


「そうそう。椿さんのママさんで、去年まで社長だったんだよ」


「ということは会長とか、相談役になるんですか?」


「いやいや、そんな立派な会社じゃないから。高砂さんも今の私は雑用係と運転手よって自分言ってるし。でも相談役って言うのはその通りかも。みんなの相談を聞く役って意味でね」

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