第6話

 熊川は冷めた口調で返答する。大人しい性格なのか、何か気に入らないのか、彼女の態度は素っ気ない。つかみどころのない雰囲気に茜も愛想笑いを浮かべて返すしかなかった。


「じゃあ私は妃倭子さんのお部屋に行くから、熊川さんは案内してちょうだい。引田さんはひとまず栗谷さんに住み込みのお部屋を紹介してあげて。荷物も車から運んでね」


 高砂はそう指示を出すと熊川と共にエントランスの奥へと向かって行った。


 屋敷内は広いせいか他に人の気配はなく、会話が途切れると風の音が反響して聞こえるほどの静けさに包まれている。

 事前に高砂から聞いた話によると、屋敷の主は宮園みやぞの妃倭子きわこという三十二歳の若い女性らしい。原因不明の難病に冒されており、要介護のレベルは五段階で最大の五。ほぼ寝たきりの状態で、生活の全てをヘルパーの介護に頼っているそうだ。

 だから宮園妃倭子自身がこのエントランスに現れることは考えられない。しかし他に誰も家人が顔を出さないのが不思議に思えた。


 それとも妃倭子以外に家人はいないのだろうか?


「栗谷さん、栗谷さん。それじゃあなたが使うお部屋に案内するね」


 引田の明るい声が響いて、茜は我に返る。


「そんなに緊張しなくていいよ。仲良くしてね」


「あ、はい。こちらこそ」


 茜も笑顔で返すと荷物を下ろすために車へ戻った。

 ヘルパーらしい陽気さと、少し押しつけがましい引田の態度も、先輩としては頼もしい。あれこれ考えていても仕方がない、今は現場に慣れることが先決だと意識した。



 高砂と熊川はエントランスの向こうへと消えたが、ヘルパーたちの部屋は入口近くの右手に三室設けられていた。

 廊下に面して三つのドアが並んでおり、それぞれ引田と熊川が一部屋ずつ使っている。残りの一室、一番奥の部屋が茜のために空けられていた。


「個室をお借りできるんですか?」


「住み込みで働く人のために開放してもらっているんだよ。広いお屋敷だからね。昔はお手伝いさんが使っていたんじゃないかなぁ」


 引田は金色のノブが付いたドアを開けながら答える。てっきり二人部屋や三人部屋に住むことになると思っていたので、この配慮はありがたかった。

 ドアを開けて入った部屋は縦横ともに三メートル弱、和室でいえば四畳半ほどの小部屋で、ベッドと小型のチェストと書き物机がスペースの大半を占めていた。格安ビジネスホテルのシングルルームよりもまだ一回り小さいだろうか。引田と入って二つのトランクを並べると、それでもう部屋は満杯になってしまった。


「やっぱり狭いよねぇ。私たちも牢屋みたいってよく言ってるの。我慢してくれる?」


「とんでもないです。ありがとうございます」


 笑顔で申し訳なさそうにする引田に向かって頭を振る。確かに広いとは言えないが、外に面した壁には窓もあり、小型のエアコンも設置されている。寝起きするだけなら何の不足もないだろう。


「住み込みと聞いていたので、皆さんと共同生活を送ることになると思っていました。個室があるとも思っていなくて、私としては十分、好待遇です」


「さすがに合宿みたいにみんなで雑魚寝ざこねってわけにもいかないよ。でもお風呂とトイレは共同だよ」


「それは全く問題ありません。水も出るんですね」


「……どうも栗谷さんは、とんでもないところで働かされると思っていたみたいだねぇ」


「あ、いえ……」


「水道も電気も普通に使えるよ。ガスは通っていないけど、お風呂のお湯とキッチンのコンロも電気式になっているから特に不便はないと思うよ」


 引田はそう説明した後、ふいに眉を寄せて深刻な顔つきになる。


「だけど栗谷さん、実はこのお屋敷でたった一つだけ、町とは違って凄く不便なところがあるの」


「不便なところ、ですか?」


「そう。こればっかりは私も光江ちゃんも本当に苦労しているんだけど……どうしようもなくて」


「何でしょうか? スマホが使えないというのは聞きましたけど」


「え? ああ……それ、そのことだよ。なんだ知ってたんだね」


「神原社長から、面接の時にお聞きしました」


「ああ、椿さん。あの人も、こんなところには一時間もいられないわぁって言ってたからね」


 引田は神原の口調を真似て笑う。彼女が社長を名前で呼ぶのは、恐らく少し前までは老婆と同じ名字の高砂椿だったからだろう。


「本当に、お屋敷にいるとスマホも目覚まし時計としか使えないから、そこだけは諦めてちょうだいね。まあ三十分ほど車で山を降りたら繋がるようになるから、どうしても耐えられなくなったら遠慮なく言って。辛いだろうけどくじけないでね」


 引田の親身な励ましに茜は首だけでうなずく。彼女たちが大袈裟に語っているだけなのか、それとも世の中の人はそこまでスマートフォンに依存しているのか、茜にはよく分からなかった。


「それ以外に生活で困るようなことはあまりないと思うけど、栗谷さんが言った通り、私たちと共同生活になるのは覚悟してね。高砂さんからも聞いていると思うけど、ここでのお仕事は妃倭子さんの介護だけじゃないからね」


「はい、炊事や洗濯も引き受けているとお伺いしましたが……」


「いやいや、それよりも掃除だよ。これが一番大変。だってこの広さでしょ? そんなに汚れないけど、ちょうど一週間かけて一通りやり終えるの。お庭もあるしね」


「お庭は、ちょっと寂しい気がしました。せっかく綺麗に区分けされて、花壇もあるのに」


「だよね、だよね。茜ちゃんもそう思うよね?」


「茜ちゃん……」


 いきなり名前で呼ばれて戸惑うが、別に悪い気はしなかった。


「私も何とかしたいなって思っているんだけど、なかなか時間がなくって。 こんな夏の良い天気の日になると、ああ、もったいないっていつも思っているんだよねぇ」


 引田は共感してくれる者が現れて嬉しいのか話を続ける。


「でも光江ちゃんはそんなの面倒臭いって言うんだよ。あの子は全然興味ないみたい。茜ちゃんがお仕事に慣れてくれたらちょっと余裕ができるかもね。一緒に何かやろうよ」


「でも、ヘルパーが勝手に庭を触ってもいいんですか? 妃倭子さんは……」


「妃倭子さん? ああ……あの人はもう、色々と分からなくなっているから。でも妃倭子さんだってお庭は綺麗なほうが嬉しいと思うよ」

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