第5話

「期待しているわ、栗谷さん。これからよろしくね」


「こ、こちらこそ、よろしくお願いします……」


 茜は両手を膝に置いて深々と頭を下げる。

 こうして茜は住み込みで働く屋敷へと派遣されることとなった。



 屋敷は森の中にただ一軒、ひっそりと存在していた。


 黒ずんだ太い木の柱に、黄土色のレンガを積み重ねた壁が立ち、飾り付けられた窓枠が等間隔に並んでいる。二階建ての上には苔むした大きな屋根が乗っており、端には四角い煙突が空に向かって伸びていた。


 相当な年代物らしく、ヨーロッパの田舎にあるような、領主のお屋敷といった印象がある。極めて巨大な古木の切り株が、朽ちてゆくままに放置されているようにも見えた。


 車は黒い鉄柵に囲まれた敷地に入って、さらに屋敷へ向かう。鉄柵の間に門のようなものはあるが、朽ち果てて開きっ放しになっていた。


「さあ着きましたよ。どう? 素敵なお屋敷でしょう」


 高砂は、ほっとしたような声でそう言うと庭の空き地に車を停める。その隣にはやや小型の白いミニバン車が駐車しており、サイドのドアにはこの車と同じ【訪問介護ひだまり】の社名がプリントされていた。


 エンジンが停止すると油で揚げたようなセミの鳴き声が聞こえ始める。ドアを開けるとその音はさらに大きくなり、さらに湿った熱気とむっとするような濃い土の匂いが鼻を突いた。


 茜は高砂に続いて重厚感の漂う屋敷へと向かう。近づいてみるとさらに大きく、まるで明治時代や大正時代に建てられたレトロな西洋館のように見えた。ただし観光と保存を目的にリノベーションされた各地の屋敷とは違う。長年にわたって住み続けられてきた実質的な古さに覆われているような気がした。


 広い庭も地肌が目立つほど荒れ果てており、かつて植えられたのであろう針葉樹だけが手入れもされずに点在している。それはこの屋敷に庭を掃除する者はいるが、新たに草花を育てようという者はいないことを物語っていた。


「ん?」


 その時、視界の隅でさっと動く黒い影があった。

 とっさに視線を向けたが、もうそこには何も見えない。

 遠くの針葉樹の陰から屋敷の端に向かって、何か小型の動物が通り抜けたように思えた。


 気のせいだろうか、それとも本当に何かいたのだろうか。茜は車内で聞いたイノシシの話を思い出して不安を抱いた。


「栗谷さん、こっちよ」


 高砂に呼ばれ慌てて振り向くと、ちょうど屋敷のドアが開いて一人の女が顔を出していた。


「はじめまして、引田千絵子ちえこです」 


 やや年上らしきその女は、目鼻立ちのくっきりとした顔に笑みを浮かべて挨拶あいさつした。

 白いポロシャツにベージュ色のチノパンツを穿き、ピンク色のエプロンを着けている。顔写真と名前を表示したパスケースをネックストラップに付けて首から提げていた。運動部系というか、体格が良く、いかにも介護士らしい頼もしさが感じられる。髪は後ろに束ねており、前髪に隠れた額の中央にある大きめの黒子ほくろが特徴的だった。


「遠路はるばるお疲れさまでした。大変だったでしょ。高砂さん、飛ばすから」


「あら、そんなことないわよねぇ」


 引田と高砂が笑い合う。親子ほど歳が離れているように見えるが親しい間柄のようだ。


「とりあえず中へ入って入って。今日は特に蒸し暑いよねぇ」


 引田はドアを大きく開いて招き入れた。


 屋敷に入ってすぐのエントランスは赤いカーペットが敷かれた広いホールとなっている。天井が高いせいで照明も暗く感じられるが、窓から入る日射しのお陰で十分明るい。やけに冷たく湿った空気も、夏の盛りとあって涼しげで心地良かった。


「栗谷さん。引田さんもここで働いてくれているヘルパーさんよ」


 高砂はハンカチで首元を拭いつつ話す。


「うちに入ってもう六年目になるかしら?」


「ちょっとちょっと高砂さん、歳がバレますってば」


「あら、いくつだっけ? 三十歳は過ぎたの?」


「まだ二十八です!」


「なんだ若いのね。でもうちでの仕事はベテランだから、栗谷さんも分からないことがあれば引田さんに何でも聞けばいいわよ」


「いやぁ、私なんてまだまだですよ。一緒に頑張ろうね」


「栗谷茜と申します。今日からよろしくお願いします」


 茜は引田に向かって頭を下げる。住み込みとなると彼女と共同生活を送ることになるので仲良くしなければいけない。気さくで優しそうな先輩と知って少し安心した。


「それじゃ、栗谷さんは車から荷物を下ろしてちょうだい。引田さんも手伝ってあげて」


 高砂が挨拶を交わす二人に指示を出す。


「私は妃倭子さんにご挨拶してくるけど……熊川くまかわさんはどちらに?」


「ええと、もうすぐ高砂さんと新人さんが来ることは伝えましたけど……あ、光江みつえちゃん、光江ちゃん」


 引田が屋敷の奥に向かって声を上げて手招きする。そこには別の女性が、慌てた様子もなくペンギンのように体を揺らしながらこちらにやって来た。


「光江ちゃん。ほら、この方が新しく来てくれた栗谷さんだよ。栗谷さん、この人も同じヘルパーの熊川光江ちゃんです」


「く、栗谷茜です。よろしくお願いします」


「ああ、うん……」


 熊川は茜と目を合わせずに、ぼそぼそと低い声で返事する。引田と同じ服装だが、彼女と比べると背が低く、その代わり横に大きく太っている。長い黒髪に細い目をした、市松人形のような澄まし顔の女だった。


「光江ちゃんは私より一つ下の二十七歳だよ。栗谷さんは二十六歳だよね? 高砂さんから聞いたよ。じゃあ私たち一歳ずつ違うんだ。学校みたいだね」


 引田は楽しげに熊川を紹介する。茜も社交辞令のつもりで感心した風に大きくうなずいた。


「光江ちゃんは元・料理人で調理師の免許を持っているんだよ。イタリア料理のレストランで働いていたんだって」


「それは凄いですね。熊川さん、何てお店ですか?」


 しかし茜が尋ねても熊川から返答はなく、こちらと目を合わせようともしなかった。


「ご苦労さま、熊川さん。妃倭子さんのご様子はいかが?」


 高砂も笑顔で尋ねるが、熊川は表情を変えない。


「別に……普通ですけど」


「そう、なら良かったわ。熊川さんも栗谷さんの面倒を見てあげてね」


「いつまでですか?」


「いつまでって、ずっとよ。ここで一緒に働いている間はね」


「そうですか、分かりました」

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