第4話

「それは……介護の仕事のほうに興味を持ちましたので」


「それだけ? 家の親御さんやご身内の方も賛成してくださったのかしら?」


「田舎の親からは好きにすればいいと言われています。割と放任主義なところもあるので……」


「田舎? じゃあ栗谷さんは一人暮らしなのね? 履歴書にも配偶者なしってあったけど」


「そう、ですね。独身で一人暮らしです」


 茜はやや口籠もりつつ答える。無邪気さゆえか、同じ歳と知ったせいか、高砂よりも突っ込んだ会話を求められている。この回答も採用判断の基準になるのだろうか。親とも同居しておらず、一人で生きている女に他人の介護などできないと思われたような気がした。


「介護の仕事に興味があるの? でも看護師さんだって介護の仕事はあるわよね。お給料もいいし、何より看護師の資格は介護福祉士よりも上に見られている」


「そうかもしれませんが……」


「うちの社員さんでも、ゆくゆくは看護師の資格も取りたいって人はいるけど、逆に看護師からヘルパーや介護福祉士になりたいって人はいないわよ。それなのに、どうして栗谷さんはそう考えたのかしら?」 


「……実は、看護師として働いていた頃に、少し体調を崩してしまったんです」


 茜は堪りかねて正直に答える。思いのほか鋭い質問に誤魔化せなくなっていた。


「仕事が忙しかったせいか、胃腸のほうをやられてしまって。精神的にも少し……」


「あら、そうなの?」


「……そういうことで看護師の業務にも支障を来すようになって、周りにも迷惑をかけることが多くなったので、いっそ退職して別の仕事を探そうと決めました」


 廊下ですれ違う女性看護師たちの、蔑むような冷たい視線。


 急に避けるようになった、あの男の態度。


 茜は腹の前で重ねた両手に強く力を込める。


 思い出すだけで刺すような痛みを感じて、過呼吸に似た息苦しさを覚えた。


「そうだったのね……今はもう平気? こっちの仕事もそこまで楽なわけじゃないわよ」


「平気です。健康診断も問題ありませんでした」


 茜はためらいなく即答する。まだ万全とは言えないが、ここで曖昧にすることもない。体調不良の理由は人間関係にもあったのだから、これ以上悪化することもないだろう。

 幸いにも、神原もそれ以上追及する気はないようだ。


「分かったわ。ごめんなさいね、色々と疑うようなことを聞いてしまって。栗谷さんがどういう人か慎重に見極めたかったのよ」


「いえ……」


「私がこんなことを聞くのもね、栗谷さんにお任せしたいお仕事に少し特別な事情があるからなのよ」


「特別な事情?」


「ちょっと、椿」


 これまで黙っていた高砂が声を上げる。娘が何か口を滑らすようなことを恐れたようだが、神原は無視して話を続けた。


「私が外から新人さんを探しているのも、募集の条件に住み込みでのお仕事を書かなかったのも、実はその事情に関係しているの。仕事先が山奥のお宅で、通うのが難しいことは高砂からも聞いたと思うけど、それだけじゃなくて、普通の人がそこでお仕事をするにはかなりハードルが高いと思っているの」


「……何でしょうか?」


 もったいぶった話し方に不安を抱きつつ質問する。

 神原は眉を寄せてじっとこちらを見つめてうなずいた。


「……スマホが使えないのよ」


「スマホが?」


「そう。電波が一切届かないの。もう何をやってもずっとゼロ。電話会社や機種を変えても全部同じ。私もお屋敷へ行って確かめたから間違いないの。本当にもう、うんともすんとも言わないのよ」


「ああ、そうなんですか」


 茜は拍子抜けした口調で返答する。もっと過酷な事情、水が出ないとかクマが出るとかいった状況を想像していた。街から離れているせいか、地形の影響かは知らないが、山奥でスマートフォンの電波が届かないことなどそう珍しくもないだろう。


「しかし、それでは連絡はどうやって取っているんでしょうか? 緊急事態が起きた時などは……」


「それは大丈夫。お屋敷に電話線は引いてあるから固定電話が使えるわ」


「それなら、まあ……」


 ますます問題はない。固定電話があるならWi-Fiワイファイを使ってスマートフォンも通信できるようになるのではないかと思ったが、詳しいことは茜も知らない。恐らく工事や通信機器が必要になるので今すぐには設置できないのだろう。

 神原は平然としている茜にやや驚いた表情を見せる。


「え、いいの? 栗谷さん。スマホが使えないのよ?」


「それは、確かに不便かも知れませんが、特には……」


「だけど、電話もネットも使えないのよ? 留守番電話もお友達からのメッセージも届かないのよ? 住み込みだから電波が繋がるところまで移動することもできないのよ?」


「ですが、ずっとお屋敷から出られないということではないですよね?」


「それはもちろん、一応は週休二日制を取っているし、週に何度かは食材の買い出しで麓の町へ行くこともあるらしいわ。でも……」


「ではその時に電話の確認もやり取りもできますので、問題ないかと思います」


 病院に看護師として勤務していた頃も個人のスマートフォンは使用禁止だった。それ以前に茜はあまり社交的な性格ではなく、毎日頻繁にやり取りする友達も持っていなかった。

 神原は右手を顎にかけて、熟考するようにふうんとうなずく。あまりにも正直に答えてしまったせいで不信感を抱かれたかもしれない。スマホが使えないのは大変困りますが、頑張りますくらいでお茶を濁したほうが良かったか。体調を崩して前職を辞めてしまったことも、親と疎遠であることもあわせると、やたらと孤独で寂しい性格と思われてしまった気がした。


「ママ」


 ややあってから、神原は隣の高砂に横目を向ける。


「この方を採用するわ。他の応募者はお断りして」


「え?」


 高砂は茜の代わりに驚きの声を上げる。


「来月から勤務してもらいましょう。栗谷さんの要望もちゃんと聞いてあげてね」


「そう、もういいのね。あなたがそう言うならいいけど……」


 神原は椅子にもたれて大きな腹を撫でつつ、聖母のような穏やかな笑みをたたえている。

 茜は呆気に取られた顔で彼女を見ていた。一体何が良かったのか、どこで気に入られたのか分からない。スマートフォンがなくても平気な人というのが、それほど珍しかったのだろうか。

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