第3話

「あら、じゃあ未経験者とは言えないわね」


 高砂は安心したように微笑ほほえむ。

 看護師と介護福祉士の業務には共通するところも多く、看護学校でも介護の知識と技術を習得することになる。それに加えて薬剤の管理や注射、医療機器の操作など診療の補助行為も行えるため、看護師は介護の現場でも重宝されると聞いていた。


「うちも初めての人を一から指導する余裕はないから、やっぱり経験者のほうが助かるのよ。栗谷さんなら充分対応できそうね」


「介護の仕事には慣れているつもりです。訪問介護は初めてですが」


 自信をもってそう返すと、高砂は少し目を逸らす。


「ああ、その訪問介護のことなんだけど……」


「はい?」


「ちょっと、インターネットの募集には書いていなかったことがあるのよ」


 高砂は視線を戻すと顎を下げて窺うような素振りを見せる。


「……実は訪問じゃなくてね、住み込みでの介護をお願いしたいのよ」


「住み込み、ですか? 患者……いえ、利用者さまのお宅に住むんですか?」


「そう。うちの介護を受けている方の中に、遠くに住んでいる人がおられるのよ。それが山梨にある岸尾山きしおさんという凄い山の中で、とても通える距離じゃないの。だから特別に住み込みでお世話しているんだけど、新しい方にもそこに加わってほしいのよ」


 いきなり想定外の条件を突きつけられて茜は戸惑う。


「もちろん、栗谷さんが一人で行くんじゃなくて、今も二人のヘルパーさんが住み込みで働いてくれているのよ。でも二人だとお休みも取りにくいし、一人が体調を崩すと回らなくなっちゃうでしょ? だからやっぱり、もう一人必要って話になったのよ」


「はぁ……」


「それで新人さんを募集したんだけど、応募してくれた人もこの話をすると、それはちょっと困りますって断る人ばかりで困っているのよ」


 それはそうだろう、茜も自宅から通うつもりでこの会社に応募していた。どうしてそんな重要な条件を募集内容に書き加えておかなかったのかと思ったが、それも不慣れゆえのことかもしれなかった。


「どう? 栗谷さん。そういう話でもうちで働く気持ちはあるかしら? お宅へ帰って周りの方と相談してからでいいんだけど」


 高砂は探るような眼差しで茜をじっと見つめる。


 茜は少し迷ったあとに口を開いた。


「そういうことでしたら……いえ、私はそれでも構いません」


「え、本当に? 来てくれるの? 採用の候補に入れても大丈夫かしら?」


「住み込みのお仕事というのは初めてなので、色々とご指導いただくことになるかと思いますが」


「もちろん、その辺のことは心配いらないわ。住み込みといってもお休みはあるし、家にも帰る日も作りますからね」


「それなら大丈夫です。よろしくお願いします」


 茜は腹をくくった気持ちでうなずく。どうせ独り身で一人暮らしなのだから、返答を保留にしたところで相談する相手もいない。新しく仕事を始めるなら、それくらい思い切ったほうがいいという思いもあった。



「あら、椿つばき


 その時、高砂はふいに遠くに向かって声を上げる。

 茜が振り向くと、パーティションの向こうから色白の若い女が顔を覗かせていた。


「ご苦労さま。打ち合わせ?」


「打ち合わせじゃないわよ。面接よ。今日三人お見えになるって話したでしょ。あなたも早く入って来なさいな」


 高砂に叱られて、椿と呼ばれた女が入ってくる。長い黒髪を中央で分けて、綺麗に整った富士額を晒している。丸顔でゆったりとしたワンピースを着た、平安貴族のような雰囲気の女だった。

 高砂からの扱いを見る限り、彼女もこの会社の社員らしい。しかし面接の場に立ち会わせる意味は分からない。のんびりとした人間らしく、手にはなぜか板状のチョコレートを持っていた。


「面接の方なのね。ごめんなさいね。わざわざ会社まで来てもらって」


「いえ……」


「チョコレート、半分どうですか?」


「え? いえ……」


「やめなさい、椿」


 高砂がたしなめると、女は軽く肩をすくめた。


「初めまして。社長の神原かんばらと申します」


「え、社長さんですか?」


 とっさに椅子から立ち上がりかけた茜を片手で制して、神原は高砂の隣に腰を下ろす。

 社員ではなく社長。でも、どういうこと?

 茜は言うべき言葉が思い浮かばず、ただ二人の様子を見つめていた。


「毎日面接ばかりで大変ね」


「何言っているの、あなたがやろうって言い出したことじゃないの。私は周りから探したほうがいいって言ったのに」


「ママの知り合いは嫌よ。こちらの方は?」


「ママは止めなさい。栗谷茜さんよ。ほら、前職が看護師の、覚えている?」


「ええ、もちろん。どこまで話が進んでいるの?」


「もうほとんど話し終えたわよ」


「お屋敷でお仕事をすることも?」


「住み込みでも来てくれるそうよ。ねぇ栗谷さん」


「あ、はい」


 高砂に声をかけられて返答する。

 神原はにっこりと微笑んでから、テーブル上の履歴書を手に取って見つめていた。

 なるほど、二人の会話から察するに、どうやら母娘おやこの関係らしい。歳はかなり離れていそうだが、目の大きなところや言葉遣いもどことなく似ている気がした。

 さらに高砂の仕事に知悉ちしつした態度から想像すると、恐らく彼女は先代の社長なのだろう。社長職を娘の神原に譲ったものの、まだ心配であれこれ口を挟んでいる、といった状況が窺えた。


「あら、ママ見て。栗谷さんって私と同級生だそうよ。私のほうが三か月だけお姉さんみたい」


 神原は履歴書を指でなぞりながら楽しげに話す。母親と違って口調も態度ものんびりとしており、穏やかだが緊張感のないお嬢様といった印象があった。


「それで栗谷さんは……よいしょっと」


 神原は椅子に座り直して姿勢を整える。

 その時、茜は彼女の緩やかな服装と、よいしょの声から、妊婦の振る舞いを想起した。どうやら彼女は妊娠しているらしい。それで何かと無理をしない態度でいるようだ。高砂と名字が異なるのも既に結婚しているからだろう。


「栗谷さん?」


「あ、はい」


 我に返って顔を上げると、神原の優しげな眼差しと重なった。


「もうほとんどママが……高砂が説明したらしいから、私から話すこともないんだけど、ちょっといくつか尋ねてもいいかしら?」


「何でしょうか?」


「栗谷さんは、どうして看護師さんを辞めたの?」

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