第2話
高砂の言う通り、看護師の業務には患者の介護も多分に含まれている。毎日の健康状態をチェックして、必要あれば飲食や移動の世話も行っていたので、介護ヘルパーとしては初めてでも全くの素人よりは経験を積んでいるつもりだ。
しかし住み込みとなると、それ以上の日常生活全てにも関わることになるだろう。すでに炊事や洗濯、清掃も業務に含まれると事前に聞かされている。そんな、いわば家政婦のような仕事となると、二十六歳の茜も自信があるとはとても言えなかった。
「誰でも最初は不慣れなものよ。もちろん栗谷さん一人にお任せするんじゃなくて、ちゃんと教えてくれる先輩も一緒に働いているから心配しないで」
高砂は穏やかな口調で励ましてくれる。
「お屋敷の
「ありがとうございます。精一杯頑張ります」
茜は努めて明るい声で返答する。弱気になってはいけない、自ら望んだ仕事なのだから。
隣のシートでは大きな二つのトランクがガタガタと音を立てている。昨夜、住み込みの仕事に必要となりそうなものを、つまり生活の全てを詰め込んで持って来た。
引き返さなくてもいいように、心機一転をはかる覚悟だった。
山道は次第となだらかになり、やがて周囲の森を切り拓いた平らな敷地に入る。先にはトゲのある黒い鉄製の柵があり、その向こうには大きな洋風の屋敷が見えた。あれが、今日から住み込みで働くことになるお屋敷なのだろう。
その時、耳元でバチンと大きな音が聞こえた。
驚いて振り向くと、車のガラスの外側に大きな虫が貼り付いている。都会では見かけない、子供の拳ほどもありそうな、ずんぐりとした体つきの真っ黒な昆虫だった。六本の腕を一杯に伸ばしてその場に留まり、蛇腹模様の赤黒い腹部が波打つように
茜は黙って目を逸らすと、ただ外へ出るまでにいなくなっていることを願った。
二
【訪問介護ひだまり】は、都心の駅前に建つ雑居ビルに社屋を構える小さな会社だった。
転職サイトの会社情報によると、社員数は二十三名。その名の通り、施設ではなく利用者の自宅へと直接訪問して世話をする介護サービスを業務としていた。
梅雨明け間もない七月の中旬、茜は面接を受けるために会社を訪れて、薄ピンク色のソファに腰を下ろして高砂と対面していた。
フロアは白色を基調とした清潔感のある色で統一されており、どこか病院の待合室を思わせる。視界の端に見える花瓶にはピンクのバラと黄色いヒマワリと、安直だがこれ以上なく時節にあった花が賑やかに生けられていた。
社内はコンパクトに収まっており、応接の間も個室ではなくパーティションで仕切られたブースに過ぎない。営業中はヘルパーの社員も出払っているらしく、高砂の他には電話応対を勤める女性社員が二人見えるだけだった。
「それにしても、インターネットって凄いのねぇ」
一通りの挨拶を済ませたあと、高砂藤子が眼鏡を外して話を切り出す。テーブルの上では茜が提出した履歴書が、エアコンの風を受けてかすかに
「実はね、栗谷さん。うちの会社、今回初めてインターネットで採用募集を出してみたのよ。今までは知り合いとか、業界の
「そ、そうなんですか」
茜は高砂の気さくな振る舞いに戸惑いつつ返答する。
「そしたら、やれ会社情報だの、やれ募集用件だの、やれアピールポイントだの入力することが多くて大変。しかもそれで募集を公開したら一週間で四十三人も応募が来たのよ。四十三人よ。だから慌ててすぐに消しちゃった。だってそんな大勢来られても対応できないわよ」
高砂は口元に手をあてて笑う。彼女の言う通り、転職サイトに掲載された【ひだまり】の採用募集は、わずか十日で募集終了となって取り下げられていた。早々と募集一覧から消えたことで茜は会社の存在に不信感を抱いていたが、どうやら単純に応募の多さを驚いただけのようだ。
「それで栗谷さん、こういうのって普通のことなのかしら? どこの会社もこんなに多くの人を面接しているの?」
「それは……どうなんでしょうか」
「介護業界は人手不足と聞いていたのに、やりたい人って多いのねぇ」
高砂は眉を寄せて頬に手をあてて首を傾げる。業界の実情は知らず、雇う側の立場になったこともないので答えようがない。茜としても単にこの会社が自宅から近かったので応募しただけだ。
さらに付け加えると、掲載されていた給料が良かったこともある。初任給で四十万円はこの業界ではかなりの好待遇だ。恐らくそれが多くの応募者を集めた理由にもなったのだろう。
「それで、栗谷さんは未経験者で、前は看護師をされていたのね」
「はい。
「応募者の中でも看護師は栗谷さんしかいなかったんだけど、どうして介護の仕事をしようと思ったのかしら?」
「自分にはこちらのほうが向いているように思ったからです」
「看護師よりも?」
「病院の場合は患者一人一人に付きっきりで介護をするのは難しいので、どうしても手が回らずに中途半端な処置にならざるを得ないことが多々ありました。また怪我や病気の症状が落ち着けば退院するものなので、通院の機会がなければその患者と会うこともなくなります。それが病院のシステムなのは理解していますが、私は特定の患者と深く長く付き合える仕事がしたいと思って、介護専門の仕事への転職を望むようになりました」
茜は
「なるほどねぇ。ということは介護にも携わっていたのね」
「はい。食事や入浴や排泄の介助は日常業務として行っていました。また看護師の資格を持っていますので
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